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2011年9月17日

ニュースの天才(2003)

- 彼はいかにして選ばれたか -

一流雑誌の若きライターである主人公は、次々と話題のニュースをモノにして、一躍スター的存在になる。しかし、出し抜かれたライバル社の記者は、記事に疑問を抱く・・・

・・・ヘイデン・クリスチャンセンが自ら製作にも関わり、主演した映画。興味深い人格の主人公を、上手く表現していたと思う。

仲間を励まし絶えず気を配り、丁寧な言葉をかける様子が解る。何か意図があるからこそポライトな印象を保つ努力をしたのだろうが、認められたい、成功したい、注目を集めたいという欲求のようなものが病的にあったのかも。

始終仲間と触れあい、慰めあうことを求める甘えのようなものも演出されていた。実際がどうだったかは解らないが、そうだったかもと訴える説得力を感じた。脚本と演出の力があったからだろう。

注目され、認められ、高い評価を受けたいと願うのは自然な感情。そのために不正な手段を採ってしまう人間、この作品の主人公はそんなキャラクターになると思うが、説得力があった。ただし、どこから足を踏み入れたかという、犯罪の瀬戸際は描かれていなかった。そういう迫力は目指さなかったようだ。

日本の記事の書かれ方は知らないが、アメリカのジャーナリスト達は度々映画になっている。誰かが記事を書くと、直ちに「裏づけは取ったのか?」と質される。つまりは記者が騙したり、騙されたりした例が少なくなかったからだと思う。嘘の報道をした場合は、訴訟や辞職のリスクは必ずついてくる。

そのチェックをかいくぐって、でっち上げの記事を書いてのけるのは、よほどの完成度と、のめり込みが必要だろう。のめりこみ方は、はっきり病的だったと思う。

同僚達を演じた俳優がリアルな雰囲気を上手く出していた。特に女性記者は、もしかしたら本当も恋人だったのかもしれないが、連帯感のようなものがあったことを感じさせた。ストーリーと直接の関係はないが、人間関係を丁寧に表現したことは、場面のリアルさにつながる効果があった。

何となく、デビッド・フィンチャー監督を思い出してしまった。彼なら、もしかすると誰が犯人か解らない推理劇仕立てにして、ラストで真相が判明するという仕組みにしたかも。

(勤務医時代に)

勤務医時代、隣の診察室で話されている会話を耳にして、言葉は悪いが「上手く騙すなあ。」と感心することがあった。脅迫めいた言葉で、画像検査に持っていこうとする医者は多い。病院勤務の医者の場合は自分の興味や実績を狙う意図や、検査をしないで帰して後で訴訟沙汰になるのが怖いのと両方あると思うが、基本的に検査を勧めることが求められている。

全くの虚構を話しているわけではないから、意図的に騙すという表現には当たらないのだが、ほとんど騙す結果と同じ場合が多い。結果的に病気は見つからず、無駄な医療費、無意味な患者の心配を発生させたことになる。

「やってみないと解らないから検査する。」と言われると、確かにその通りだし、法的にも認められた行為でもあり、時には本当に診断が合っていて役立つので全否定はできない。でも、無駄な行為が大半の医者も多いと、あくまで私個人の印象だが思う。

脳外科のCT、MRIは、おそらく7~8割は不要では? 個人のクリニックでMRIを持つ場合は、本来なら絶対ペイしないはずだが、余分な検査を勧めてペイする方向にしていないだろうか?

大腸ポリープ切除も怪しい。大腸検査とポリープ切除は、切除によって寿命が延びる効果が証明されない限りは意義が不明確。効果が解らないことに医療費を使わせるのは、自分の場合は気が引ける。病院負担でなら構わないのだが。

一回検査を受けた患者達に、手紙を書いて検査を勧めている病院もある。本来なら、定期検査は何年毎が有効という統計を取って、それに従って予定を組むのが原則だと思うが、人間ドック的な検査で医療費から金をせしめている。

健診に医療費を使うのは法的には犯罪だから、医者の大半が本当は犯罪者かも。

真面目に必要性を調べ、根拠を持って検査する先生もいるかもしれない。本当にどう考えているのかは証明のしようがないので、あくまでひとつの意見に過ぎないが、道義的にギリギリ~もしくはアウトの例もないとは思えない。現時点で、ポリープ切除の効果に関するエヴィデンスは希薄。

主人公のモデルになった記者は、解説編に出演していた。テレビのインタビュー番組を載せていたようだが、丁寧な物腰で、はっきり自分の行為の誤りを謝罪し、悪辣な人物には全く見えない。あのような話し方をされたら、疑うのは難しい。ついつい信頼してしまう。

彼は弁護士の資格を取ったとコメントされていたが、言いくるめる才能は確かにあるはずだし、殺人を犯したわけではないので、構わないと思う。ただし、よく弁護士をめざしたなあと思う。

法廷での信頼を得るのは無理では?あちらの弁護士は、法廷でいかに勝つかだけを考える人が多いような印象も受けるが、裁判員の信頼を得るだけの経歴も必要だろう。余計な要因で裁判に負けると困るから、彼に弁護の依頼が来ることは難しいはず。

彼が職場のスター的存在で、厳しいはずのチェックをかいくぐって作品が次々採用されたのは何故だろうか。解らないが、選ばれるための何かを持っていたのだろう。

(選ばれ方に関して)

私が若い頃、未来に絶望したのは、人の選び方に大きな壁を感じたから。自分が人から選ばれるのは難しい気がした。考え方が違うから。

日本が抱えている問題の根源には、人の選び方に関する我々自身の間違った判断の積み重ねがあると感じた。人の選び方=社会の進む方向という面はあるから。

30年前の私の頭の中では、将来の日本の社会はあらゆる分野で構造疲弊を起こし、経済は停滞、政治は小田原評定、頭脳や産業は流出していくことが明白だった。社会のあり方から変えない限り、先は見えていると思った。先走りすぎたが、分析は外れてなかったと思う。自慢にすぎないけど。

もちろん、大半の人は豊かで安定した生活を維持しているから、悲観する必要はないという考え方もある。絶望するなどおかしい。できれば将来への不安要素を減らしたいと願うだけのレベルの話。差し迫った危機はそれほどない。

でも正しい選択をする努力は、長期的には意味があると信じる。今は良いが、将来は悪化すると予測するのは気分が悪い。現時点では、選ぶという基本的な場面のセンスのなさを感じる。それによって、将来が悪化すると考えざるをえない。

原発事故のような危機を、国や会社の力で事前に予防するのも難しかったと感じる。予測できる人間を排除することで、具体的な対処を排除するから。

極端に言えば、社会の隅々で間違った人の選択がなされる結果、理解できない人間に改善策を言っても理解されないし、正しい判断ができない人間に正しい意見が取り上げられるはずはなく、今後もできそうにない。決定できる人間の皆がモラルや予測能力に欠けていて、自信を持って間違う。

自分が生きているうちは、良い方向に向かいうるか解らない。だから、当時の私は無力感に囚われた。今の若い人もそうかも知れない。

周囲は「大仰な考え方しないで、とりあえず自分の生活、金儲け、業績、出世を考えよう。」と、冷静な連中が多かった。彼らは正しい。理解できない人に無理やり言っても意見が通るはずがないし、”敵”は本物であり、既得権が絡むから都合の悪い意見は無視するのが道理。

自分の取り分にありつくことは大事なことで、全体が没落する危険よりも目の前の利益に固執する、それは自然な感覚。既得権は手放したくない。その否定につながりそうなものは許せないから、選択しない。集団の生き残りを優先する私のような人物を、あえて選びたいとは誰も思わない。よほど状況が悪化しないかぎり、私の考えが選択されることはない。

意見が通るためには、それなりの説得力が必要。強制力、目に見える利益配分、または親近感、信頼がないと聞いてすらくれない。客受けする内容でないといけない。冷徹な予測を話されても、「正しいかも知れないが、俺には解らない。」という反応が大半。目に見えないことは判断しにくいから無視、というのが現状。

権威をつけるために社会的地位を上げる必要があるが、どっぷり構造疲労にはまらなくてはならない。原子力関係の学者達が良い例。 御用学者でないかぎり、役職に就くことは難しい。真摯な考え方は、組織の論理とは相容れない。取り立てられて出世することで、自らが社会の害悪になる。原子力業界に限らない。

原発事故の対応を見て、権威があるはずの原子力の専門家は、私の目には能力と真摯さが欠けていたように写ったが、でも彼らは正当な方法で選ばれた人達だった。事故の前までは優秀な人間の代表。でも判断は正しくない。ああでなければ、選ばれなかったと想像する。

彼らは凄く優秀だと思う。あんな事故でも、時間をかけて収束させる能力がきっとある。役人達も、事故は起こしたものの、今後は安全な原発を作る法規制、管理方法を構築できると思う。問題点が明らかになれば、事態を把握して対処する作業に納得してとりかかれるし、作業能力に関しては優秀。

ただ、予防や戦略に関しては得意でない。事故が起こって初めて事態を理解できる。そんな人が選ばれたのだ。そんな人だったからこそ選ばれた、そこが根源的な問題。

選ばれた人物である自民党、民主党の議員も、充分役に立っているとは思えない。試験で選ばれた優秀な官僚集団の対策も、信じがたい手抜かりが多いような気がする。根本的に選び方が間違っていたのでは?今も間違い続けているのでは?戦前のエリートと同じく、戦略に欠けていたと思う。

選ぶセンスがなかったし、今もない、今後改善するシステムもない。今のところ、長い間の国民的努力によって貯蓄は豊富だし、外貨や海外資産も多い、国民の大半が死ぬような大災害も大戦争もないので、日々の仕事に精出して行けば困らないが、過去の資産を喰っていけば、やがて孫達は大変になるだろう・・・

一般に安易な分析をする人のほうが人気はある。希望を持たせてくれないと、選ぶ場面では優位になれない。でも、そうやって選ばれた人が社会を占めてしまったら、どうなるのか。頭の中まで希望だらけではいけない。冷徹な予測は、その集団の生き残りのためには必要。

組織の力を保つためには、異端の人を排除してはいけない。希望を与える人間と、冷徹に予測する人間、チェックする人、画期的な手段に打って出る人、色々な人物を選ばなければならない。選び方にセンスがないから、システムで改善していくしかないと思う。そのシステムを作る能力がある人間がいないことが問題だが、でもシステム構築は不可能ではない。

映画の中の新聞社よりも、もっと酷い選択をやらかしているのが現状。我々自身も反省が必要ではないか?・・・映画を観て、そんなことに考えが及ぶなんて、私はほとんど病的な愛国者なんだわ。

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