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2011年7月21日

ロープ(1948)

- 倫理逸脱のパターン -

二人の若者が共謀して、自分らの友人を殺す。死体を箱に入れ、そこに友人の親達を招いてパーティーを開く。殺人の目的は、完全犯罪をすること、それ自体にあった・・・

・・・BS放送で鑑賞。フェードアウトや、休憩に相当する場面の切り替わりがない独特の手法を使っている。良いアイディア。

勢いを失わないために、この手法は有効だった。今ならCGを使って、さらにスムーズに、役者の背中なども使わずに場面をつなぐことができるだろう。クリストファー・リーヴが犯人役をやった映画で、場面の真ん中に柱がたっていて、それかな?と思ったが、よく解らなかった。うまく使われると、本当に判らない。

あちらの人間は、殺人もゲームのひとつと考えるのか?こんな内容が娯楽映画になるとは!紳士、淑女が着飾ってこの作品を観て、「オホホ、楽しめたわ。」などとのたまうのか!鬼畜米英のヤツラ、やっぱり人種差別主義者の、サイコ野郎に違いない。

・・・でも、確かに面白かった。鬼畜などと言っては申し訳ない。もはや古語、死語と言える。日本人も負けず劣らず、サイコ映画が好きなのだ。

怖ろしい殺人で映画がスタートする。舞台の雰囲気そのままに、ひとつの流れで、場面も飛ぶことなく、堂々と意見を述べる。「優れた人間は、劣った人間を殺す権利がある。」

日本が負けた理由は、きっとこれだ。白人同士なら許す状況でも、相手が日本人となれば別。利権を制限して進出を妨害し、耐え切れなくなって宣戦布告するように仕向け、後は兵站が途絶えて自滅するのを待つ怖い作戦。屈服させること自体が目的か?・・・などと考えたら、全然違っていた。

モデルとなった事件があって、異様な動機に騒然となったらしい。よかった、あちらの国にも人間らしい感情はあったのだ。それに、その犯人は裕福なユダヤ系の出身らしく、勉強のしすぎか何かでニーチェにかぶれての犯行だったらしい。

まさか、ユダヤ人に対する嫌悪感から、この作品を作ったのでは?選民思想の連中だから、超人思想とつながるものがある。すわ、監督の野郎、やはり人種差別の目的か・・・というのも考え過ぎだろう。監督はユニークさ、面白さを追求したに過ぎないのでは?

ジョン・ドールという役者が最も光っていた。自分の能力に自信を持ち、皆を煙に巻きながら、穏やかだが辛らつに笑う。その演技振りが自然で、存在感が抜群だった。ジェームズ・スチュアートが一応の主人公ではあったが、明らかに中心は犯人のドール氏。

犯罪者をかっこよく映した映画だから、この作品は絶対に子供に見せてはいかん!テレビで流すなボケ!と言いたい。

そういえば、何かにつけて他人を批評して、自分を一段高いものとして分析したがる人間が多い。この私もそうだ。私の場合は人を露骨にバカにすることは滅多にないが、絶えずクククと誰かをからかってる人間は確かにいる。

熊本県民にはモッコス気質に加えて、その道の大家気取りが百家乱立、意見が集約できない傾向がある。偉人でもないくせに、大きな声で自慢~批判したがるオジサンが、例えば温泉やジムのロッカーにたむろする。暇人だなあと思いつつ、でも彼らを批評している自分は、彼らよりどんだけ高い位置にいるのかよとハッとする。

いつの間にか、彼らと同じ年齢のおじさんになり、同じように他者を批判しているのだ。

彼らは群れを作る。おそらく、仲間から外れて批判の対象となることが怖いから自然と群れて、結果として一個の集団となるのだろう。批判が自分を守る武器と感じている節がある。チョッカイ精神が集団の力の源泉となるのは間違いない。互いの眼が気になるのだろう。

多数の友人を持ち、仲良く絶えず集まって飲み会でも開いているから高い人間性を有するとは限らない。組織を構成する原動力が、仲間外れの恐怖の場合は多い。一人になったら何を言われ、何をされるか判らなければ、集まって確認し続けるしかない。

自分の立つ位置が守られ、攻撃の対象になっていないことを確認し、心配していた心情を吐露し理解してもらう、そうすると自分が存在することを実感できて安心する、その作業が集会であるとも言える。自分の居場所を見つけた気がするという安堵感は、サル山レベルの心理反応が起こった場合の、脳の基底部分が感じる不思議な安心感だ。

その安心感のためには、倫理的なことに眼をつぶる場合が多い。これは犯罪の要因になるパターンその一だ。

小学生の頃には番長タイプでクラスの誰かをいじめたり、脅したりする子がいた。他の子にちょっかいを出さないと気がすまない性分?生意気なヤツは許さない性分?取り巻き的な存在が何人かいた。彼らの考え方の根底には、自分が攻撃されることへの恐怖があるように感じていた。

自分は取り巻きになるのが生理的に嫌だった。手先になって誰かにチョッカイを出したら、きっと後で自分を許せないということを本能的に感じていた。正しいかどうかより、後味が悪いことは避けたい、面倒から逃げたいという感情。

子供だから、どう生きるべきか?といった哲学はない。相手を多少は軽蔑していたが、自分が正しい、優れているという感覚もなかった。子供なりに、クラスの中での自分の立つ位置は隅っこでいいし、それより手先になりたくないと感じていた。後悔はしたくないから。

孤立を怖れなかったわけではない。正直ビクビクしていたが、当時の理想主義に感化されて、無理していたんだろう。私は、いわば鉄腕アトムの子の一人だ。仮に独りよがりと言われても、彼らと違った形で生き残りたかったのだ。

でも、私と違う感覚の人間はずっと多い。命じていないと気がすまない、口論になったら屁理屈でも相手をへこませないと気がすまない、そんな性格は珍しくない。難癖をつけてでも、存在感を示したい。上手い方向に行けば出世する、変な方向ならチンピラ向き。

または、これが最も多いのだろうが、保身を最優先し、強い者にまかれてでも、立場を守ろうと努めるタイプ。いずれも、仲間でないかぎり相手の心情は気にしないタイプ。「自分を守るためだから、多少の悪の片棒かつぎは仕方ない。」そんな感覚か。自分を守るために他を攻撃するのは動物本来の習性であり、宿業のようなもの。

そのタイプが、生き残りの手段として殺人を考えたら、実行しても不思議ではない。幼少時に冷酷なボスか手下タイプだった人間、人前でタバコを吸える人、迷惑が気にならないタイプ、倫理より自分の立場を優先する人、これらはやりかねない。命じられたら、断れない。

孤立孤高を貫くタイプも危ないかも知れない。もともと独特なものがあって孤高の意識を持ち、周囲を感情ある存在と感じないような経験を繰り返していたら、怒りに任せて理性を失う場合があるかもしれない。怒りがなくても、ドール氏のような愉快犯的な動機でやっちまうかも。これは殺人のパターンその二だが、少数派のはず。

一般的な意味の理性など持たなくても、結構ちゃんと仕事に就き、家庭を持っている人はいると思う。理屈を一歩間違えると、殺人さえ自分の権利と判断することはありえる。

知られていないだけで、実際の不審事件には結構このタイプの犯罪が隠れているだろう。殺人に限らない。原発推進メール事件も、猟奇殺人じゃない点は違うとしても、社員や会社が生き残りを優先して倫理を逸脱したのに近い。

単に九電に対して「公共精神、倫理観、常識の欠如」と言っても仕方ない。九電側としては、会社の不利益になることを黙って見過ごすのは悪業に他ならない。それに会社内部での評価を考えたら、多少危ない橋を渡っても、”仕事”をしたいと考えるのが普通。

真正直に集会を開いて原発大反対の結果になったら、「お前らは黙って見てたのか!」と糾弾される。出世はなくなり、窓際に移動するのが怖い。子供の頃、自分がいじめられないために誰かをいじめる手先になったのと似て、生き残りのためには必要と感じたのだ。

医者の集団でも同じ。高い倫理が求められる宗教団体でさえ同様。集団内部の序列や、出世、名誉のためには、倫理観など吹き飛ぶ。集団内部の論理、病理、社会心理に関して、小学生の頃から学問的な知識を与えない限り、倫理うんねんの話をしても無駄と思う。

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