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2011年5月21日

アンストッパブル(2010)

- 気質と構造疲労 (副題・ 池のお魚の運命) -

実際に起こった列車暴走事故の映画化。数年前に報道は読んだ記憶があるが、たいして印象に残っていなかった。

日本では長期間暴走しようにも、すぐ脱線してしまう距離しかない。大陸でないとピンとこない話。それに飛行機ではないので、列車に飛び乗れば簡単に止められそうな気がする。

大パニックではない題材だったが、上手くまとめ上げたために退屈はしなかった。家族で観れる作品に仕上がっていると思う。恋人と観るのも悪くはないような印象。非常に感動する作品ではないが、よくまとまっている。

主演のデンゼル・ワシントン、共演のクリス・パインとも、なかなかの演技だった。あんまりオーバー過ぎると安っぽい印象を受けてしまうが、適度に解りやすく、適度に自然な表情だったと思う。

ヒーローではあったが、人間臭いままで描いた点は良かった。なにか清々しいとでも言いたくなるようなキャラクターになっていた。

実際に列車を止める時には、たぶん後方から乗れたら、先頭車両にゆっくり移動していけば良い。ツルツルの貨車があったとしても、行けないことはないはず。そのへんの理屈は解らないまま。

パニックが起こって、どのように考え、対処するかの考え方の手本になりそうな映画。娯楽性もちゃんとあったし、主役の悩みや置かれた状況が関係して、ラストの喝采につながる仕組みが上手かった。脚本家が上手かったということだろう。

早い段階で脱線させたらどうだったか?ヘリで何度も飛び乗らせたら駄目か?いろんな考え方があったと思う。くびになったらしい責任者は、けしてバカではない様子。それなりに考え、手を打ち、指示を出していた。すべて間違いだったとは言えないが、優秀で適切だったとも言えない。実際に事故が起こったら、彼のように行動する人が多いかも。

福島の原発事故でも、担当者達は懸命に考え、行動したはずだ。批判は受けないといけないが、最初から勝負は決まっていたんだろう。ここ数日の発表によれば、メルトダウンは地震の数時間後には起こっていたらしいから、地震発生後に対処しようにも限界がある。

最初の段階で、運転手が列車を追いかけるシーン。仲間達は追いつけない運転手を笑っていたが、笑うべきではなかったことになる。深刻な事態であることを認識できなかった現場の判断に、まず大きな問題があった。誰か他の者が事態を認識して代わりに飛び乗っていたら、事故は起こらなかったはず。

運行管理者の責任というより現場の気の緩みが最大の要因だったと、事故原因調査委員会なら結論するのか?

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(杞憂の内容)

若い頃の自分が危惧していたことを思い出す。どう対処すべきか考えても、結論が出せないままだった。健全な考え方、結果につながらないままで、役に立たなかった。

①まず第一、日本が成長を続けると予想しなかった。理論上は停滞縮小に入ると考えた。日本の場合は資源が知れているので、正しい展開をしない限りジリ貧。また、アメリカの意志に反することはできないから、基本的にアメリカの下で細々と生きるしかない。展開に制限があることが前提。

②国が目指している方向が理解できなかった。例えば農林業に関する当時の政策を続ければ、村は維持できない。それが国の望み?理解できない。農業以外も総て、あらゆる公共投資の仕方に、理解できないための怒りを感じた。

③国が破綻状態になったら、個人の幸せも限定的と自分は思う。国がどうあれ、個人が成功すればよいと考えるほうが健全かも知れないが、狭い池の中で他を押しのける魚のような自分を想像すると悲しい。そんな成功に意欲を持つか考えると、気がなえる。

④周囲の物事の決定の仕方が嫌だった。多数決をすると、決まって扇動される。分析して判断する能力などない。サル山で多数決するようなレベル。仲間意識などに影響された決議を平気でやる。社会意識が低いと、正しい対処などできるはずがない。そんな社会の行く末に期待は持てない。

⑤でも、自分の分析を証明できるものがない。池の中で勝ち残ることしか考えず危機意識が乏しいから、組織として末路が見えているはず・・・でも、それに根拠がないのが自分でも嫌だった。危機感に共感できる者はいない。結局、実際に問題が明らかになるか見るしかない。

(結果)

・・・そして、その通りだった。自慢したいのではなく、敗残兵の嘆き。役に立たなかった自分が情けない。自分に圧倒的な能力があれば、何か勝負しようと考えたかもしれないが、そんな発想は浮かばなかった。

予想は外れてなかった。景気や政界の停滞、医療福祉に関することは、30年前の予想通りだった。分析は当たっていたようだが、対処する能力がないので、ただの予測に止まった。だから何をするという対処ができないでは意味がない。

国を先ほどの池に例えると、”狭い池”のまま大きな変化はない。中で威張った魚と、やることがない魚がたくさんいて、私は隅っこで細々と生きている。池自体が干上がりつつあるので魚たちは不安だが、生きてはいる。そんな状況。これは当然なるべくして、そうなったのだろう。

若い人達は、将来に希望を持って生きて欲しい。自分はヤケクソ状態だったが、子供や青年達に同じような想いはしてほしくない。「自分が所属する社会は駄目だ。」なんて思って欲しくない。誇りを持って欲しい。

私も小中学生の頃は、何も不安に思わなかった。せいぜい大病をしたり戦争や震災が来ないならいいな、くらいの心配だけ。希望を感じていた。

さすがに高校時代になると、問題点が見えて来る。こんな社会で大丈夫か?と不安になる。問題のない社会などありえないのだから当然。「でも対策がとられ、解決しそうだよ。」そんな見通しが立っていれば、悩む必要はなく、自分のことに集中してよい。

もしくは、「自分には関係ない」と、思えればいい。私には、それができなかった。私は先祖や先達の想いを常にイメージするから、考えることに制約がある。所属する社会が危機意識の低い集団に思えると悲しい。狭い池全体の運命をイメージすると、「人は人、自分は自分」という考え方はもう通用しないと思った。

今の子供は私よりも先に、そのように認識しているのかも知れない。子供は敏感だから、知識としてより雰囲気で状態を認識する。問題は根深く、「敵は本物」だと認識しているのかも。

問題は存在しても解決策はある、そして今それがなされていると思えなければ、私と似たようになるかも。その気質を持つ子は、怒り、失望するはず。何も気にせず、自分のことだけ考えなさいと言うべきかも知れないが、その考え方には問題の本質が絡む。

(震災と精神の関係)

社会のあり方が、それほど心に影響するのかと訝しく思う人も多いかもしれない。独立精神が強い人間には関係ない話だろうが、強く影響を受ける人間も多いと思うだけで、たいした根拠はない。研究が少しずつ進んでいるから、やがては証明されるだろうが、影響を受ける気質(遺伝的要素)は存在すると思う。

例えば震災なら、精神面への影響を理解しやすい。被災者はもちろん、被災者に触れる機会がある人達、震災の二次的影響を受ける人達はもちろん、子供達も感じるものが必ずある。映像を見るだけでショックを受ける。

自然災害の非情さをまず感じる。人間の対処に限界を感じるのでは?さらに原発事故に関する恐怖や怒りも、普通なら感じるだろう。子供だってそうだと思う。どう認識するかは、その子なりになるとは思うが。

避難を要求される地域の子供は、ひどいハンデを感じるだろう。不条理、偏見、不公平感が感覚として残るはず。「俺達の地域、俺達の世代、住民みんな不幸だし、今後もひどいだろうね。」そう思わないだろうか?もちろん耐えようとは思うだろうが、皆が明るい希望を持てるだろうか?

気質は千差万別であり、どれが偉く、どれが駄目とは言えない。不幸をバネにできる人間もいれば、皆が幸せなら自分はいいと願う人間もいる。無茶な施策に希望を失う人もいると思う。若者や子供達は、政府や大企業、議員や官僚、学会の専門家達に、どのような印象を持っただろうか?かってよりも不信感を持った人間が増えるのではないか?

震災は極端な例だが、一般に暗い見通しは人に影響を及ぼすと思う。自分で経験したレベルでしか言えないが、要するに”心がすさむ”というか、建設的な考えに入れない状態にならないのか、と危惧する。既に震災前から、景気などの影響で広くそうなっているような気もするが、より悪化するのでは?

適切な施策が採られれば希望が生まれるはずだが。

(集団と個人の関係)

自分の失敗は、未来に希望を持てなくなってしまったこと。単に勉強疲れしたのか、社会への失望による意欲低下と相乗的に働いてしまったのか、ヤケクソ状態になった。高校から大学時代は完全なフヌケで、ヤケ酒ばかりあおっていた。

病的な人間は皆そうだと思うが、周りの人が意欲を持って生活できるのが不思議だった。飽くなき成功意欲があれば、ああはヤケにならなかっただろう。雑念を蹴散らす強い意志はあったほうが良い。

若者は、成功したい、収入も充分に得たい、可能なら尊敬を受けたい、安定と社会的なステイタスを得たいと考えるのが自然。私は、スネた子供のような情けない人間。

可能ならば、社会がどうであれ気にせず、まず自分のキャリアアップを計ることに集中すべき。徐々に社会人としての認識を持てれば良い。人は人、自分は自分。まず能力をたかめ、実績をつむべきだ。

ただ、それが行き過ぎると、社会的意識の乏しい人間が上に登り、集団全体が構造疲労に陥る傾向がある。社会がどうあれ自分は出世したいと考え続けた人ほど出世する現象は、実際にないだろうか?

個人の頑張りは大事で、それがないと社会は発展しない。でも、功労者なら何をやってもいいとは誰も思わないだろう。社会に害を与えない程度に優遇されるべきというのが原則。功績があっても集団全体の利益を侵害して良いはずがない。

仮に集団の利益を侵害しかねない要因が出たら、普通はそれを排除するのでは?そうしないと、組織が機能しない。頑張って他を押しのける魚を評価するのではなく、池の存続、拡大を測る魚を評価するといった意味のセンスが望まれる。頑張り方にも色々ある。

(原発と危機意識)

また原発を例にする。

分析の仕方はいくらでもある。原発廃止は当然~廃止などもっての外と正反対の意見が堂々と飛びかう。理路整然と、互いに全く反対の意見が成立する。弁の立つ議員らが今日も国会でやり取りしていた。

声はもっと静かに、政治的思惑に囚われることなく、正しい歴史認識、経済的予測に基づいて論じ、もし出せるなら正しい結論を出して欲しい。予測が当たるならば、語る資格がある。ただ、専門家はまったく役立たずだったことが証明された感もあり、役人は平気で隠蔽、誇張をやるし、どうやって予測するのか疑問。いろんな利権が絡むし、いったい誰に聞けばいいんだろう。

東京電力の社長、会長は、コストカットの実績がある優秀な人物だったらしい。目に見える実績が、選ばれるために役立ったようだ。誰かの引き立てもあっただろう。テレビの会見を見ていても、実に優秀そうな印象。歴代の社長もそうだったろう。

原子力保安院、大学もそうだろう。怖ろしいくらいに優秀な人物が揃っていたはず。どのような選ばれ方をしたかは知らないが、学業優秀、仕事は早く、話は理路整然、仕事も猛烈にしていたのでは?

皆に危機意識があれば、対処できなかったかと思う。私なんぞが手を出せた話ではないが、ただただ残念。危機を回避できなかったのは現実で、分析や議論のあり方に狂いがあった結果だろう。

原発の映像を一目見れば、あのような立地、構造はありえないと感じる。手を出せないのが悔しい。文句を言っても、「専門家に任せて、お前はお前の仕事をやれ。」 そのように言われて、引き下がるしかない。決定できる立場に自分はいない。悔しさや怒りに負けそう。

会社や政府に、私のような目をした人間がいなかったはずはない。排除されたのだろう。人事や会議などで、理路整然と間違うエリート達に負けてしまったのでは? 事故=破綻、国家的損害という認識はなかったのか?

もともと、そんなのを気にしないのか?頑張って大いに仕事して出世する道を目指すからには、個人の努力が第一で、社会人としての認識など、他のことは無視すべきだったのだろうか? 

東京電力や、保安院に限らないと思う。学会から何から、あらゆる場所で間違って人を選び、間違った結論を出す構造になってないか?社長や会長が辞職しても、構造がそのままではいかんぜよ!と思うが・・・

(意志決定のルールの改善) 

残りの人生もそう長くないので、もうそろそろ結論を出したいのだが、未だ学ならず、解らない。明快なことは何も言えないから、この文章を読んだ人の多くは、「何くだらないこと書いてんだ。業績あげてからものを言えよ。」そんな感想を持つだろう。

組織が機能するためには、個々の判断を的確にするしかないと思う。そのためのセンスが決め手になる。センス=生き方に通じる。生き方を変えろと言われても無理。「この文章、何が言いたいんだか、わかんねー。」と、感じるだろうが、そのような事情によるので仕方ない。

意志決定の仕方を規則で適正化する、これが集団の生き残りの決め手になる気がする。ただ根拠はあまりない・・・皆が優れた認識を共有できれば理想だが、個人的感情に流されてしまう現実は、簡単には変わらない。だから良きルールが望ましいと感じるだけ。

ただ選ばせると、誰でも個人的要因でものごとを選ぶ。生き残るために、徒党を組むのはサルにもある自然な反応だから、縁故や雰囲気などを基準に選ぶ。でも、多数派がそうだと社会はジリ貧になる。将来の危機をコントロールするのは難しい。

会議をする時には、議題に関係ない要因は排除されるべきで、それを確保するルールを作ってから議論するべき。いかに優秀な人間でも、個人的感情の呪縛はあるので、恣意的な判断が介入する可能性がないところまで規則を作るべき。これも原則ではないか?

大勢が集まって会議をすると、周りにどう見られるか気にして大見得を張ったり、人の顔色をうかがったり、下を向いて手を挙げたりするのは普通のこと。あれは、サル山をイメージすると解りやすい。自分の立つ位置を確保したくなるので、妙な結論でも賛成してしまうのだ。

だから、会議の人数、配置、決議の仕方まで客観的に設定する必要がある。

行き過ぎた管理は息が詰まる。”議論の進め方”という根底に位置する部分で、最低限の原則に限って管理すればいいと思う。他は自由なほうが良い。ゲームや数学問題と同じように、ルールを認識してしまえば、誰でも一定の判断ができる。

様々な考え方、気質がある。条件反射的に他より優位に立とうとする人間もいれば、寄り合いたがる人間もいる。どんな専門知識を持ち、どんな役職に就こうとも、気質の影響を受ける。専門知識からの答えを曲げてでも、立つ位置を確保しようとするのが本能。

本能や気質までは批判できない。利益に関係ない、独立した立場の人間を登場させて、適正化してもらうまでは、自由にさせるべき。いっぽう、自分の不利益を鑑みずに判断する人は、何かの保護がないと持たない。他から独立した身分を保証しないといけない。

小さな会議でも、海外の裁判に近いルールが望まれる。「福島に津波は来ないと専門家が言うんだから、素人のバカ医者は黙れ!」「異議あり。今の意見は偏見に満ちていて不適当です。」「異議を認めます。」  「福島原発周辺への津波の記録がないので、安全です。」「異議あり。記録がないことは、対策を要しないことを意味しません。」「異議を認めます。」ってな具合か。

裁判所の役割は大事だったと思う。例えば原発立地に関して、安全性に踏み込んだ判定をできるのは裁判所だけだ。第一原発で訴訟があったかどうかは知らないが、もしあったなら司法には責任がある。国民を守ろうという気概に欠けていないか?構造疲労にはまっているようだ。

構造疲労は、我々が長年かけて作り上げたもの。それぞれの想いや野心が伝統となり、社会の正常な動きを阻害している。誰かを処罰しても解決しない。敵は確信を持って間違っているのだから実に強固で、まさに本物。遺伝子レベルで規定された気質を持って懸命に動き、社会の機能を損なうのだ。

利害関係のある人間に決定権を与えてはいけない。官僚に任せると利権や天下りのことに目が行く。学者もそう。構造疲労に陥らないように、判断の場をクリーンに保つべき。第三者が管理しないといけない。それを怠っていた結果が、今日の現状。

・・・この30年間、本当に怖いくらい予想通りだった(これは自慢)。海外の人間は、私よりも正確に予想していただろう。難しいことではない。

高いレベルの論理的思考は必要なく、ただ恣意的な要因を排除することだけでもいいと思う。その意味を今回の震災や、過去の歴史から認識する人が増えれば、対処法も適正化される可能性が高まる。ヤケになる人間も少しは減るだろう。

当面は、個々人には何もできない。社会全体の認識が高まらないかぎり、方策はない。相当ひどい目に遭わない限り、認識までは変わらない。気質が変わることなど最初からありえない。起こるべき当然の結果が待っていることを覚悟するしかない。

”狭い池”が干上がらないようにしたいと願うか、池の中で勝ちあがろうとするか、その感覚には魚ごとに違いがある。でも外から見れば、魚の力や個性などどうでもいい。全体が干上がれば意味などない。

 

 

 

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