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2011年3月23日

1Q84(その3)

- 解りません  -

女性暗殺者青豆と、小説家大吾、探索者牛河、用心棒タマル、教団員らが織り成す、教祖殺害後の物語。

まだ映画にはなっていないので、これは読書感想文。

文体は解りやすく、我々でもスラスラ読める。カタカナとひらがなを上手に使い分けて、音だけで理解できていない状況と、理解できた状況を区別できるような使い分けが正確に出来ている。おそらく可能性、確実性、想像と確信といった観念の違いに作者は非常に敏感なんだろう。新聞の文章とはレベルが違う感じ。

3作目は買ってから随分たって、昨日やっと読み終えた。結局、私には理解不能の部分が多く、文学に親しんでいる人でないと解らない暗黙の約束に惑わされたかのような、なんだか混沌とした読後感。

でも、そうでないと良い小説とは言えない。「ああ、面白かったね。」で終わるような作品は、言いかえれば浅い作品で、取り上げる必要もないほどのレベル。読んだ後に、読者がうーんとうなるようでないと。

この作品、うなってみたけど、やはり良く解らないまま。私には、やはり「良かったね。」で終わる小説のほうが向いている。

かなり斜め読みをした。したがって、細かい内容を読み取っていない。少女フカエリが、最終的にどうなったのか理解できないまま。

主人公達に迫る敵である牛河には存在感を感じた。1~2巻の編集者もそうだった。モデルがいるのかも知れない。それに比べ、ヒロインには実在しそうな感覚は受けなかった。話がほとんど異次元空間の物語だから、当然と言えばそうだが。

自分が接触もしていない人の子供を妊娠したと確信するか?いくら小説でも、普通は無理がある。村上春樹以外の作者だったら、一笑にふされてしまい、文学かぶれの幼稚な設定だと決め付けられそう。

登場人物が文芸や音楽に詳し過ぎた。作者じゃないんだから、ヤナーチェクなんか普通は絶対に知らない。哲学者の言葉が口からスラスラ出てたら、普通は変人と思われる。タマルのような人物はプロに徹するために、要らぬ本は読んでいないはず。

そのへんの注意が足りないのでは?このままでは、本当に文芸の世界の中でしかありえない、文芸のための文芸になる。本来の名作は、登場する人物が端役に至るまで実在感があり、感情移入できる性格のものではないのか?それとも今は、そんな名作は流行らないのか?

牛河の家族は実際には登場していなかったが、家族とどのような経緯で別れたのか、また実際の会話などがあれば、さらに存在感が浮かび上がったかも知れない。存在感のある敵役は大事。妻から「今月分の生活費まだよ!」なんて怒られながら、地道な捜査を続けるなんて面白い。

月が二つある世界は正常とは異なる世界のことを象徴しているようだが、映画に使えそう。うまく写さないと白々しくなるかもしれないが。あまりにおどろおどろしく写すと、二級のホラー映画を思い出させる。さりげなく写したほうが良い。画面を止めたりしないで、何の解説もなく写すほうが良い。

NHKの集金人、宗教活動家のような独特の家庭に育った子供が特有の体験をすることは解る。「努力せざるをえない。」ために、優秀な成績を収める場合もあれば、全く阻害されて宗教にのめり込む場合も当然ありえる。この点は納得。

親が人に嫌われるという認識で、子供は深く傷つくものだ。

それが作品で使われた設定だった。子供は親の仕事によって世間から何らかの評価、引け目のようなものを感じてしまう。いじめも当然ある。作者には何かトラウマがあったのか?それともオウム事件の被告人達には、そのような特徴があったのか?

おとぎ話のような設定には違和感を感じた。小人の登場、宗教指導者が自分の死を予見し、求めるという展開。あれでは、カルト集団に本当のパワーがあるのだと訴えているようなものだし、魅力があると感じる人がいるかも知れない。積極的にカルト集団を擁護しているはずはないが、客観視していないのも確か。設定の意図が解らない。

誰かの妄想の中で小人が登場するなら納得できる。登場人物が真面目な顔して「マザとドウタが歌を歌いながら・・・」などと話すと気味の悪い光景になるだろう。同様に、教祖が一般論として自分の死を予見するのは理解できる。でも何か特殊な能力を見せる必要はなかったと思う。賛美につながりかねない。

青豆は殺人者である。目的は崇高だと仮定しても、殺される人物に何の同情も必要ないのか?彼らにも家族がいるのでは?家族がいなくても、殺人に問題はないのか?彼女がいかに暗い少女時代を送ったとしても、だから殺人が許されるわけではない。

アナーキーで感情的な見方がストーリーからは正当化されてしまっている。話は面白く、読んでいて退屈することはない。それが文芸の基本だろう。でも、設定には違和感を感じる。

法律上の問題がない人物だけで物語を作っていたら小説にはならないとは思うが、この作品はこのままで良いのか?この作品で深く感動できるのか?やや疑問。

仮に村上以外の無名の作者が、この作品を発表したら・・・。おそらく大ヒットはしない。文学でカルト集団や宗教を表現することが、この作品を書いた目的のひとつだったと作者は何かで述べていた。

文学的な表現法と、社会科学的な表現法は違ってよいとは思う。でも視点は誰が見ても客観的であって欲しい。礼賛につながってはいけない。

 

 

 

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