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2011年1月14日

紳士協定(1947)

- サル山考 -

舞台は東部のアメリカ。ナチスドイツを倒し、ソ連と対立しつつある時代。ユダヤ人には当然好意的・・・ではないらしい。暗黙の了解で、ホテル宿泊を断られたりする。主人公は、自分がユダヤ人と偽ることで受ける迫害をルポする・・・

原作があるらしい。アメリカ人のことだから、原作者は本当に体験してみたのかも知れない。

そつのない作り方で、ラヴ・ストーリーと家庭内の愛情、友情なども物語にかなりのウェイトを占めている。告発が延々と続く退屈さはない。よく考えた作り方で完成度が高い。文芸の伝統をちゃんと通している。

こんな映画は、やはりアメリカでないとできなかっただろう。国家としては酷いことをやってきたとしても、理想を訴え、公正さを保とうという姿勢には敬意を表さないといけない。敬愛精神の先輩フランスでは、ひねたニュアンスを持たせないといけないような、ある意味では堕落に近い諦観が主体になっているような気がする。

はたして、今のハリウッドで、このような作品が成立しうるだろうか? 

テーマは非常に基本的、かつ広く存在する大きな問題。作品を真摯な態度で描こう、公正さを保とうという態度を感じる。生真面目な映画。ギャグを混ぜるといった愚を犯していない。でも、たぶん内容が微妙で、大うけすることはないだろう。

本当は多少の息抜きの役割をする人物が欲しかった。見ただけで笑えるような愉快な共演者がいたら、もう少し和んだ雰囲気になったかも。でも、この作品は充分にヒットしたらしい。

若い人や子供には退屈とも言える。大人限定。恋仲の若い人達にも観てもらいたい内容と思うが、ちょっと真面目過ぎる。この作品は正論なんだが、今もって多数派の態度が映画の主張通りとは言いがたいので、誰にでも勧められる内容とは言えないかも。

認識の度合いには、人によって相当の開きがあるはず。「そう、差別は良くないわよね。」といった浅い認識では、自分が迫害の片棒を担いでいても気がつかない。

まさに、そこが主題。良識派が多数になってしまえば問題ないのだが、あらゆる差別、贔屓、足の引っ張り合いがある実社会で、人種による排斥がなくなるのは現実には難しい。この作品の主人公のような人物に育てられた子供が実社会に出ると、厳しい洗礼が待っている。

正しい側が多数派なら良いが、少数派の場合は自分への迫害の理由を与えるようなものだ。世の中には迫害は自分の権利、自然な行動、自分の立場を守るためには必要と考えている人間、もしくは自分の言動の是非は気にせず感情のままに生きる人間も多いので、エサを自分で与える結果になる。それに耐えられるか?

迫害や差別の撤廃のためには、やはり法律で縛るしかない。実際に厳しい規則はあるはずだ。でも暗黙の了解、不文律はコントロールが難しい。この映画のテーマだ。

ユダヤ人の場合は、金銭的な格差、宗教上の特異性が絡むので難しそう。何か法律で保護しようとすれば、今でも豊かなのに保護なんてとんでもないという感情も起こりうる。キリスト教徒に対して敬意を払わない印象が我慢ならない、選民思想も嫌い、といった条件がそろっているのか?

黒人に対しての迫害もいまだに凄いらしい。スポーツや音楽の世界では対等以上に活躍しているようだが、実社会では違うだろう。日本人への迫害も確実に強い。少数派は、スキがあれば殺される可能性もある。

日本の社会の中でも暗黙の迫害はある。子供の喧嘩の時のような贔屓、迫害は少なくない。就職に関する手引き、例えば教員の家族の採用を優先した県の場合は、その他の子弟を迫害したことに他ならない。同郷人、学閥などを優遇すれば、同時に迫害もあることになる。露骨でない差別が、積もり積もると格差になって現れる。

自分を守りたいという欲求は当然だ。そのために何かの規則や集団を作るのも自然の流れ。ひとりでいると多数から攻撃されたら終わりなんで、自然に群れをつくるのが自然。その場合、他の集団との区別は、感情を伴ってしまうのが自然らしい。

サル山の中で、群れが争う時を考えれば解る。

サル山でも「お前は敵が来たら前線で戦う役、お前は叫ぶ役、お前は後ろに回る役。それを守らないなら食事の順番は最後。」といった規則がきっとある。序列、役割分担ができるのが自然。そこには感情も派生する。敵に酷いことをしないと、お前も許さないぞ、など。その恐怖が戦いの場合の力になる。

軍隊組織だってそうだ。敵が来たら君は戦う役目。命令に違反したら、軍法会議。家に帰っても迫害が待っている。そういった規則によって強制的に戦わせないと、皆が戦場から逃げてしまう。迫害が組織を維持する基礎的な法則。

したがって、組織の強さ=迫害の激しさと誤解しやすい。軍隊式の感覚のまま、内部での罰のやり過ぎと誤認が多いのは事実だ。「軍隊じゃないんだよ。」と言っても、軍隊式が好きな人物が多いので、声はかき消される。何となく司令官タイプの人間は頼りになるように感じるからだろう。迫害のために組織の機能が損なわれたら何にもならないということは薄々解るのだが、言い出すのは怖い。

何の差別もない社会は理想だが、急に人間が目覚めることはありえない。どの国、どの会社も何らかの競争の最中にはあるので、迫害を恐れさせないと維持すらできないのかも。差別に対する反発が良い方向に発揮されれば、並外れた努力を生じて何かの発見につながることもある。

差別を全く許さない社会は発展しないだろう。差別を是とは思わないが、差別が嫌だから頑張るというサル山の恐怖が自然になくなるのは現実的には無理。もし紳士協定を蹴るなら、自分が迫害されること、時には守ろうとした相手からも迫害されることまで覚悟しないといけない。「あいつらのために戦ってきたのに・・・」心は傷つく。

根拠はないのだが、たぶんサル山ではそうらしい。サルはなぜ自分がルールを守らなかった仲間を迫害しなけりゃならないかなど考えられないだろう。人も、その点に関してはサル並み。「だって、あいつはルールを守らなかったんだもん。」と言い訳するが、そのルールの落ち度のせいにしているだけで、結構な悪行をやっちまってる。

差別の撤廃などの新しい概念を提唱すると、無条件に反発する。それは自分を守りたいという欲求から、迫害を恐れる恐怖心から出ているので、理性が通用しない。犠牲者が目立つ形で出て、感情のレベルに訴えて初めて、じゃあルールを変えようかいと気がつくのが現実。

だから法で縛るべきだ。法で規定されたら、例えば「宿泊を断る正当な理由を提示できない場合は拒否できない。拒否する場合は理由を文書で回答する。」といった法律が成立したら、ホテル側は拒否して訴訟になる可能性と、常連客を失う可能性を天秤にかけて判断せざるを得ない。

法的処罰という新しい恐怖でしか、彼らの感情が動かされることはないはず。

一気にやると営業できないホテルが続出して、かえって悪徳ホテルを増やす結果になるかも知れないが、法律整備を繰り返していけば、実利の面から迫害が非現実的と判断できるのも期待できる。そのような明文化されたルールの積み重ねしかない。

私はそう思うんだが、このセンスは一般的でないことも確か。一般的には、こんなこと気にしないほうが有利であることは間違いない。

 

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