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2010年10月24日

マイ・フェア・レディ(1964)

- 高級感と意気込み -

言葉の汚い花売り娘のイライザが、言語学教授のヒギンスの教育によって上流階級にデビューできるかを賭ける物語。ミュージカル映画の名作として有名。

大ヒットミュージカルの映画化作品。舞台と同じような雰囲気を出す方針だったらしく、ロケの場面はなさそう。巨大なセットの中で、鮮明な画像が維持されている印象。馬が走るシーンは、たぶん大きなスタジオを使って中を走らせたのではないか?

凝ったデザインの女性達の服装が、いかにも金がかかっていることを感じさせて、それで高級なものを鑑賞する満足感につながるようだ。映画をせっかく観るなら、金を払っただけの満足感を得たい。高級なファッションは、見るだけで豊かになったような錯覚を覚えさせる。

アカデミー賞に衣装賞があるのは奇異な印象だったが、この作品を観てなんとなく理解できた。ハイソな人々を表現する際に、付け焼刃の衣装デザインでは白けてしまう。高いデザインセンスが必要だ。衣装には大きな効果があった。

有名な作品だが、個人的には好みではないと考えて、今まで観たことがなかった。中学の音楽の教科書に「鳥は雲に~」のテーマ曲が載っていて、こんな気恥ずかしい歌を歌わされたらかなわないという印象を受けていたのが最大の理由。

実際の曲は日本語の歌詞とは随分違って、純粋に自分の成長、成功を喜ぶ内容だった。鳥が空をどうのこうのは、芸術かぶれの翻訳者の仕事だったようだ。もっと早く観ていれば良かった。

高級なものを見せてもらったという感覚が味わえる作品。その分、ちょっと古臭く、様式美の舞台風の演出に戸惑う。最初に長い前置きのための花のシーンがあるし、休憩時間もある。いかにも古い名画の作り。

舞台では今だと大地真央の主演でたびたび上演されている。ストーリーが単純で、しかも健全、そして自然な流れで、実に上手くできた話だと感心する。作風がちょっと古いので、役者達の所作が古臭くて嫌になる観客もいるかも知れないが、たぶん子供達もかろうじて観れるし、恋人と一緒に観ても怒り出す人は少ないのでは?

退屈する子は多いかも知れないが。

オードリー・ヘップバーンは当時35歳くらいで、初々しい感じはなくなっている。この役柄はもともとはジュリー・アンドリュースの当たり役だったから、アンドリュースがそのまま演じるべきだったと思う。その場合、晩餐会などでしとやかに登場する場面の迫力がどうかが解らないが、そのへんは演出などで工夫できたのではないか?二人は激しいライバル意識を持っていたという噂だ。

歌をヒロイン本人が歌う必要は、映画の場合は全くない。どうせスタジオできれいに録りなおししないと、雑音なども入って使えないと思う。でも、大きな口を開けてクチパクをしているのだと観客が知ってしまったら、少し興ざめする。可能なら、本人に歌わせたい。このミュージカルは、それほど歌の上手さを要しない気がするので、ヘップバーン自身に歌わせても良かったのでは?おそらく、そのほうがヒットしたはず。

相手役の俳優達も歌が非常に上手いとは言えなかった。歌らしい歌い方ではないから当然だ。セリフに調子を付けただけのような曲が多いので、大げさに歌えば、それなりに楽しく見える。上手さは必須ではない。

一番傑作だったのはイライザの父親役(下の写真の左)。これは舞台と同じ役者が演じていたらしい。

Photo

かなり肥満体型で、踊りは全く見栄えしない。歌声もこもった感じで、ミュージカル向きとは全く感じられない。でも体型や年齢、所作のすべてが上手く役にはまっている。セリフも素晴らしい。教授から金をせしめるために交渉する場面の理屈は、この作品の中で一番おかしかった。見事な論理。

あの論理運びは、病院にクレームをつける人達と同じである。無茶な要求を、一見すると筋が通っているように見せるテクニックは、「当然の権利」「法的に規定された部分」「人の感情」「世相」などの要因を、自分に都合の良いように整理することにつきる。そうしながら、自分の野心や狙いは上手く隠す。

権利がある面は当然権利を主張する。金を払ったんだから、直す義務が医者にはあるという論理。苦しんでいる自分を無視するのは人道的に問題という理屈。他の患者を出し抜こうという意図は隠す。平気で3時間くらい騒ぎ続けて、他の患者への診療がストップしてしまうことの是非は気にしない。そんな人物を愉快に演じていた。

メイキング編を観ていたら、ワーナー氏自身が製作者になっていたようだ。高額の契約料で映画化の権利を得て、主演にも100万ドルの出演料を出したらしい。確かに、舞台でこの作品を観たら、ヒットは確実と思えただろう。金をかけて、より豪華な映画を作ってみたいという意気込みを感じる。

その意気込みが、この作品の最大の魅力かも知れない。公開当時は少なくとも「高級な物を観れた。」という満足感が充分あっただろう。今でも、その片鱗を感じる。

 

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