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2010年8月24日

楢山節考(1983)

楢山節考(1983)

- 食糧事情 -

奥深い山里には古来からの風習で、70歳になったら山に捨てられることが決まっていた。主人公の母親は覚悟を決めていたが、主人公は迷っていた・・・

・・・姥捨て山伝説をヒントに作られた小説の映画化。前作の木下恵介作品は、スタジオ内で狭いセットの中に村を再現していたが、本作は広大な廃村と本物の山を舞台に、長期間のロケで作られたそうだ。

この作品は古くなっている。家族や恋人と観れるような気はしないが、ユーモアのある人なら理解を示してくれるかも。大人だけで観るなら、結構な作品なんだろうが・・・

理科の教材に使えそうな珍しい動物の映像が挿入されていて、迫力の面では旧作と随分と違う作品になっていた。カンヌ映画祭でグランプリを取れたのも、多分ロケの迫力、動物達の描写が効いたのではないか?

映像がかなり暗かった。スチール写真では鮮明な画像が記録されているのだが、スクリーンでは周囲の細かい部分が見えない。当時のカメラや照明の技術の限界かも知れない。「ブロークバックマウンテン」と比べると、景色を写した画像の鮮明度、冷たさまで伝わりそうな詳細な表現力に差がある。

今村監督やカメラマンは、もしかすると都会育ちなのかも。山に対するカメラの視線は、我々が山の中で生活するときの視線の移動の仕方とは違ったものだった。山に対する敬意のような感情や、愛情や怖れに似た感情の表現はなかった。せっかくの美しい風景が生きていないように思ったが、私だけか?

冒頭の映像から違和感を持った。おそらくヘリコプターからの映像を撮影したのではないかと思うが、振動が見事に写っている。山の映像を写す場合に振動は雰囲気を損なう。深遠な感じが出せない。いっそ諦めて、固定カメラで地上から写しても良かったと思う。

風の使い方が素晴らしかった。親の魂を感じさせる木のシーンは迫力があった。

そもそも原作のアイディアが素晴らしい。民謡があるという設定、そこの歌詞にストーリーが絡むという設定は、よく考えてあった。姥捨て山だけを題材にするよりも、作品の真実味、奥行きが出る。

坂本スミ子は当時まだ40代だったはずだが、見事な老婆ぶり。でも、シワが不足してた。総じて体格の良い俳優が多かったが、もっと深刻さが伝わるような、痩せた俳優を集めてはいけなかったのか?加藤嘉なんかは、必需の俳優だったと思うのだが・・・

いくら昔でも、犬のように次々と娘達が妊娠して、そのまま嫁に入っていたはずはない。どんな田舎村でも、嫁入りの儀式くらいはあったのではないか? ダンナが死んだら、ニコニコと直ぐ隣の村の後妻にというのも無理な話だ。

しかも、やってきた嫁がたくましい。夫の不幸を嘆くなど全く感じさせない竹城の言動には、シュールな笑いがあった。

殿山泰司が懐かしい。目を開けているのか解らない表情と、独特の声は、作品に重々しさを出してくれる。

あんなにデブの村人が多いんだったら、人減らしの必要はない。リアルな表現で深刻さを出すことより、たくましさを表現したかったのだろうが、日本人は何て怖ろしい人種だろうかと思われたかも。

姥捨て山という題材が映画祭向きだった。題材が特異なので、欧米人の興味を引きやすい。リアルでなくても、動物と同じようにしぶとく生きる姿を写していたら、それを評価してくれる。その狙いは当たっていたようだ。

個人的には、せっかくのロケを生かして、深遠な雰囲気の中で動物のように生きる観察記録のような作品を作って欲しかった。自然の脅威になすすべもなくやられて、生き残るために姥捨てが必須であることを表現しても良くなかったか?

セリフを最小限にして、冒頭には風習の解説、歌を流して、その歌詞の解説も入れて、さながらドキュメンタリータッチの「野生の王国」みたいな記録をして欲しかった。

作品の冒頭の解説や、ちょっとしたBGMで、よりシュールな作品ができたのではないか?そうしていれば、今でも通用する作品になっていたと思う。今では多少は演技しすぎ、演出過剰、クールさが足りない印象を受ける。

エキストラ達は特に演技なんかして欲しくない。自分が村人の一人になった気持ちで、ほとんど無表情か、もしくは何があっても微笑むような気味悪い表情だけでよかったと思う。

エピソードのもうひとつ、父親を殺していたという設定には疑問を感じる。必要性が解らない。それに結構無駄なシーンも多い。観客の目線の流れが断ち切られるような印象がある。登場人物が上方向に移動したら、次のシーンは移動した先からの視点、もしくは人物の表情といった約束事がある。それが時々断ち切られていた。

主人公が母親と別れる場面は、意外とあっさりだった。緒方拳は、長いこと悩んではいたが、ふっ切れたように山を降りていたし、泣き叫ぶような姿は見せなかった。木下作品とは主題が違っていた。そこは、監督がこだわったのかも。

盗みを働いた家族を殺しても、あんまり後ろめたそうな顔をしていなかった。子供に罪はない。怖ろしい幼児殺しをしているのだが・・・ それをたくましいと感じるのが本当は自然なのかも。昔は子供も親といっしょに殺されるのが当然と考えられていたはず。子供だけは・・・という感覚は、つい最近できたものだ。

口を減らして生き抜こうとする風習は、例えば昭和初期の農村では普通だったはず。奉公に出た「おしん」だってそうだ。日本以外でも、何かを飛び越えさせて、できない人間は死んでもらうという風習を聞いたことがある。確かに全滅するよりはマシだ。

姥捨て行為は、今後もないとは限らない。食料事情次第だ。その時、自分は家族のために死ねるだろうか?と、ちょっと考えたが、その前に第一、人間をおぶって山に上る体力があれば、それは即ちその分のカロリーがあるということで、そんなら別な工夫をやってもいいのでは?という気もする。

年金の財政が悪化してきたら、90歳以上の人には年金を出しません、後は勝手にやってください、なあんて時代が来るかも知れない。現代版姥捨ては、今でも多少は始まっている。その事態に備えるために、せいぜいお金を貯めておかないといけないが、なかなか貯まらない・・・

 

 

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