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2010年7月31日

劒岳 点の記(2008)

- 行者のごとく生きるべきか? -

明治時代の末、剣岳の測量のために登頂を命じられた測量技師と、その仲間たちの物語。登山技術が進んでいなかった時代、前人未到の山の登山には危険が伴った。しかもライバルが出現。焦りから事故を引き起こしてしまう・・・

・・・映画が終わって、出演者達の名前が出る前に、「仲間たち」という表示が出る。

おそらく、この作品の撮影は困難を極めたと思えるので、スタッフの面々に感謝と敬意を表して列挙したものと推測する。最後まで、あっぱれな態度であった。

浅野忠信と香川照之の表情はいつもの通りで、セリフ無しでも通用するほどの存在感を感じた。

この二人以外の役者の演技については、やや不満を感じる点もあったが、鼻をつくといった印象はない。でも、もし皆の思い入れ、不満や恐怖なども短時間の中で盛り込むことができたら、それは奇跡に近いのだろうが、盛り上がった感情を表現できたかも知れない。そうなると、さらに怖ろしい傑作になっただろう。

映像が素晴らしい。細かい点まで鮮明に見える高感度のカメラを使っているようだ。山を舞台にした作品の場合、特に厳しい自然を表現したいなら、カメラの性能や撮影のテクニック、場所や時間などの選定は気を使わないといけない。おそらく待ち時間は膨大だったろうし、失敗も多かったのでは?

下手すると遭難もありえる。山で嵐にあったら、現代の装備でも長くは持たない。よほどしっかりしたキャンプを張らない限り、死者が出てしまう。それこそ、「たかが映画、他人から見れば遊びの延長としか見えないことのために、死者を出してはならない」

この作品は家族で観ても、恋人と観ても良いと思う。小さい子でも感動することが可能かも。ただし、ちょっと退屈する人がいないとも限らない。

当時、まだ剣岳が未踏と思われていたとは知らなかった。今ならロック・クライミングの手助けがあれば軽装備で登山している人も多いと思う。修験者なら確かに登れそうだ。酸素が必要な高さではないので、気候が良い時期に時間をかけて登れば不可能ではない。

下のような岸壁に立って、登ろうと考えるか?山登りをする人は、多少は行者に通じるものを持っているのかもしれない。

Turugi

当時のロープは麻製だったかもしれないし、軽い装備というものが、そもそもなかったと思われる。わらじと手だけで崖を登るのは、正気の沙汰ではないと考えるのが普通かも。登ろうと考えるのは行者だけだったと考えたほうが自然だ。

監督の考え方が反映された作品かもしれない。基本的には友情の物語であるが、生き方や仕事に対する使命感、家族への想い、そのようなものをどう考え、どう対処するかを表現した作品で、哲学的な裏づけがあるのか解らないが、さながら行者のごときセリフが行者でない出演者達の間で交わされる。

行者・・・昔は珍しくはなかったらしいが、いったいなぜ行者になり、どんな生活をしていたのか、何を食べていたのか?山にこもって食べられる物は限られている。最もカロリーを確保できそうなのは木の実だと思うが、調理をどうするのだろう?鍋やビンを持った行者はいなかったはずだが・・・

なぜ行者になったのか?おそらく生き方に悩み、自分の心を平静にするために、やむにやまれずなったと想像するが、今でも出家する人は多いし、特に比叡山では千日修行という古来からの修行のスタイルがあるらしいが、あれは行者に近い。

現代の常人なら精神科に通院しておしまいだろうか? もしかするとだが、引きこもり状態になった人の中に、行者と通じる人がいるのかもしれない。周りの人間、社会のすべてが自分の考え方と食い違い、すべてがおかしく思えたら、引きこもるしかない。実際、日本という国自体がおかしいのだ。

悩みというのは、もしかすると脳内の伝達物質で解説できるものかも知れない。血気盛んな時期には、自分の衝動と自分がおかれた状況のアンバランスを感じて、一心に念仏を唱えないと正気を保てないと感じるのかも知れない。それを「邪念」などと表現している可能性もある。

性衝動や、成功への野心、自己防衛の過大な反応などは誰でもありえる。それらは脳内の伝達物質の分泌の具合で調節されていると思う。行者は、過剰な分泌を山々を歩く激しい行動で昇華させている状態かも。

自分も日々充実感を感じているわけではない。家族は私の想いを理解してくれないし、患者さんから常に感謝されているわけでもない。経営的なことも、将来の生活設計も不安がないわけではない。自分の健康、親の健康も気がかりだ。

今までの自分の生き方が正しかったのかも解らない。自分のキャリアを積むことに専念し、高い収入を目指すべきではなかったか?そもそも医者になってよかったのか?もっと利己的でも良かったのではないか?高校時代はコンピューター関係の仕事で大金持ちになろうと考えたこともあったが・・・

きっと誰でもいろいろ考え、後悔している人も多いのでは?

自分に与えられた、もしくは選んだ道にひたすら徹するというのは簡単ではない。ひたむきすぎて体を壊す、手を抜かないと危ない、そんな場面も多い。そんな時にどう考えるか、この映画は考えさせる。

友情や誇り、使命感が大事だが、ちょっと履き違えると、そのために犯罪めいた事業に加担してしまう人間もいる。行者や職人のように何かに徹する人物は利用されやすい。「あいつの生き方は何かに徹しているんだな。」そのへんを上手く利用して優位な立場に立とうと考えている人間も多い。例えば、主人公に命令をした軍人達がそうだ。

世間の慣習というものは、どこか真面目な人間を利用するために作られた傾向がある。弱者が利用され、後ろで操る人間がいることを正当化するためには、慣習や規則が必要だ。「規則でそうなっているから、無茶でもやれ!」ってな具合。「その命令、明らかに間違ってます。」と言いたい状況は多い。

普通は命じられる側も、相手を利用することを考えながらやる。裏切られないように、また道連れで失敗しないように注意しながら。その思惑に引きずられるのが嫌な人は、行者のごとく世間との関係を断ち切って生きるしかない。仮に利用されるとしても悪しき目的で利用されることなく、社会に貢献し、家族を養うことができたら、大成功でなくとも善き人生と言えるだろう。

 

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