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2010年4月10日

サマーウォーズ(2009)

- 高品質 -

監督 細田 守 

高校生の主人公と憧れの女性の一族が、謎のバーチャルキャラクターと戦うストーリー。

想像以上の面白さだった。似たようなアイディアの話は何度か読んだり見た記憶があるが、この作品は訴え方が絶妙で、高品質の印象を受ける。

基本的には小学生~若い大人までが対象となりそうな作品。家族で観ることも可能。恋人と観るのもOK.

家の庭に船を運んでくるシーンや、戦いのシーンの動き方はジブリ作品と良く似た画像だった。動き方がほとんど同じ。もしかするとスタッフが共通なのか?と思えるほど。少し味付けを変えたほうが特色が出るのではないかとも感じたが、アニメでは限界もあるのだろう。

設定が非常に適切だった。過度に盛り上がらせてシラケるような愚は犯していない。

多くの家族がいれば当然いそうな人物の設定が絶妙だった。奥さん連中にもよく働く人もいれば話しに夢中になる人もいる。親戚同士で変なライバル意識や、からかうもの、すねたやつ、疎遠になるものなどがいるのも実に自然に描かれていた。細かくキャラクターを描くのは大事だ。

コンピューター内の戦いと、甲子園、誕生会の騒ぎ、親戚同士の関係など、いろんなプロットがごちゃごちゃする様が、いかにも夏休みの雰囲気だ。塾通いでは味わえない、叙情性というのか?

情けない主人公の性格が適度なコメディにつながっている。凄腕のヒーローが戦う本格的なSF路線を狙わなかったのは正解だと思う。臭いヒーローでは観客が飽きてしまうだろう。子供専用の映画でない限りはずっこけ路線を狙うしかない。

信州あたりの武田家家臣といえば真田幸村一族を連想させる。徳川家を押し返した過去の栄光や、負け戦でも勇敢に戦ったなど、きっとイメージしている。その一族の生き残りが、特別な誇りの感情を持っている事がストーリーの上では大事だった。

ただし、その感情は日本人以外ではどのように写るだろうか?外国にも旧家を誇る気持ちはあるようだが、日本の武家のような、特に真田家のような悲壮な感覚は理解できないかも知れない。

子供の頃、おじいちゃんの家に集まることがよくあった。お盆などの時に、大勢の奥さん達が台所に集まって大鍋を使って料理する、あの光景が懐かしい。今は親戚の集まり自体が少ないし、てんでバラバラに生活しているので葬儀屋の座敷などを使うしかない。

数年前に葬儀屋の座敷で集まったが、あの田舎の家のような味わいはなかった。簡単に済ませると、子供の心には残らないだろう。

もし田舎に大きな屋敷が残っていれば、もしかすると今でもあの懐かしい雰囲気を味わうことができるかもしれない。羨ましい。自分が子供の頃行った家は、今は朽ち果てているらしい。残念だが、田舎では生活が成り立たないので皆が出て行くしかない。

バーチャル・ゲームを楽しむ人の人口は多いだろう。自分の場合は視力や時間の問題があって全くできないが、ゲームセンターなどで横から見ていると、本当に熱中している姿をよく観る。確かに自分が今の時代の子供だったら、お小遣いを全部つぎ込んで遊ぶに違いない。親から何と言われようと、きっと熱中するに違いない。

でも、絶対に健康には良くない。脳や目や筋肉に良い効果があるとは考えにくい。もし自分の健康を大事に考えるならゲームは一般に避けるべきだ。

花札やトランプなどは、また違う性格を持つ。会話や表情を読むこと、戦略などの要素が大きいので、結構コミュニケーションに関係する。ただのコンピューターゲームよりは推奨されるべきかと思う。でも今はゲームしかしない子が多いようだ。

巨大なネットワークが大きな役割をするのは確かに危険をはらむ。映画では繰り返し扱われてきたテーマだ。やりようによっては信号を管理するシステムなどに障害をもたらすことも可能かも知れない。

今はバラバラに管理されているライフラインも、将来は機能的に統合されるかもしれない。どんな時にどんな危険が起こりうるかを予測しないと、本当に大きなシステム障害が起こりうる。空港の予約システムがよく障害を起こすが、あの脆弱性が理解できない。たぶん膨大な予算を取って作ったソフトのはずなんで、百年くらいはミス無しでやれるくらいに作り上げるべきだ。

起こりうることへの想像力が、受験勉強では身につかないのかもしれない。芸術、スポーツなどの創造性、アイディアセンスがないと、大きなシステムを作ることは難しいだろう。今の富士通などのスタッフには本や参考書だけで得た知識が豊富なエンジニアが多いのでは?これは昔からのことかもしれない。旧日本軍のエリートは非常に優秀だったらしいが、全体としては間違った方針を出してしまっている。

アメリカ軍の場合、例えばノルマンディー上陸のような大事な作戦でも実に適当で、上陸地点を間違えたり迷子になったり、よく成功したものだと驚くくらいだが、何とか乗り切っている。兵站などの大事な部分がしっかりしていたからだろう。

医学部で出会う秀才達は、論争をさせると強いが実際の治療内容は見当外れも多い。根拠が希薄な迷信に近い治療法で特に疑問を抱かないで済ませることができる。覚えが早いのは、疑いを抱かないからか?肝心なことで理路整然と間違うといった感じ。

私のように何もかも解らなくて困っている人間は、根拠を気にするので事故が少ない傾向がある。本人も理由は全然解っていないのだが、なぜか患者は生き返ることも多い。くだらないことを考えすぎるので、聞かれると説明にならなくて困るのだが。

得手不得手は必ずあるものだから、システムの戦略を作る人間と、ミスをチェックする人間、そのミスをチェックする人間、それらの適材適所の配置を怠ってはいけない。その向き不向きは試験では選別できるはずがない。その点を日本の社会は忘れているのかも。

 

 

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