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2010年3月 6日

道(1954)

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- タイトルの意味は? -

ザンパノという男は乱暴者で、怪力に物言わせて鎖を切るだけの大道芸でメシを食っている。身の回りの世話をしていた女が死んだので、その妹を金で買うためにやってきた。妹は嫌がったが、クイブチを減らしたい母親の願いを受けて、しぶしぶ同行することになる。不幸を絵に描いたような女ジェルソミーナは、ザンパノとともに旅をするが・・・

・・・道というタイトルをつけた理由がいまだに解らない。監督は適当につけたとコメントしていたらしいが、人生の道?のような意味合いを含み、なんだか芸術的な感じを受ける効果はあったようだ。

この作品は古すぎて恋人や家族といっしょに見るのは無理かも知れない。大人同士なら、かなりの感動が期待できると思うが、若い人はどうだろうか?

名作の候補に必ず挙がってくる映画。何回みたか忘れたが、学生時代から繰り返し観ている。今回は衛星劇場で鑑賞。

あまりの不幸さ、悲惨さの中に、心暖まるような感動を覚えざるを得ないという変な映画。ザンパノに対する嫌悪感と変な共感、ジェルソミーナに対する同情とあきれる思いで、ややマゾヒスティックな満足感を味わえる。愚かな人間や悪人を徹底的に表現すると、なぜか感動できるという不思議な現象。

あまりに上手い展開や演出に踊らされてしまうのか?

そう言えば悪役を肯定的に描く映画は少なくない。本当は正義の味方が主役であるべきなんだろうが、そればっかりでは飽きてしまう。ろくでなしの乱暴者が悲しげな表情を浮かべたり、不幸になると我々は同情してしまうようだ。常に正しく強いヒーローが勝っても、それほど感動はできない。子供じゃないんだから、ひねた主人公のほうが喝采を受けるのか?

知的障害者を描いた作品も多い。たいていは感動してしまう。

ジェルソミーナを演じていたジュリエッタ・マシーナは小柄で、知能の足りなさそうな表情が上手い。万国共通の表情らしい。彼女が大柄だったら話全体が喜劇に変わってくる。体格も重要だった。

おそらく精神遅滞のレベルが軽い人は自分の能力が足りないことを感じて、万事に恐怖を感じながら生きていかざるを得ない。もっと高度の精神遅滞になれば、それすら解らなくなるはずだが、中途半端に賢い場合は、卑屈な笑いを浮かべて媚を売るような表情になるし、時々おかしな仕草で愛嬌良くしようとするようだ。そうしないと不安だからだろう。その辺の表現が自然だった。

性格と区別しにくいが、利にさとい人は不機嫌になることも気にしない。仲間を集める必要が出た場合は不機嫌ではいられなくなるが、普段は金にならない人に対しては愛想など考えない。利益に対する考え方と機嫌は、結構関係しているような気がする。ただ不機嫌だと損をすることが多いので、深く考える能力があれば機嫌は良くしているはずだ。

ずる賢くなれば、温厚な笑みを浮かべてしっかり人をこき使うことを考えるか、恐怖で人を縛ることも画策するのか?とにかく、そんなアクドイ人物は、それなりに愛想が良い。愛想と攻撃性とは、知能や自己防衛反応のパターン、戦略のようなもので、徐々に熟成されて出来上がると思う。

攻撃性の部分は、たぶん脳内の伝達物質の出るパターンがかなり関係していると思う。感情に関係する部分は、一種のネットワークをとっているそうだが、うつ病の人が発症する前と発症した後では、それこそ人が変わったように物事の理解の仕方が変わる。まるで違う経路をたどって脳が処理しているかのように、どう話しても悪く感じてドツボにはまるようだ。

ザンパノを演じていたアンソニークインの表情も実に自然だった。あんな目付きは時々見かける。ヤクザっぽい人の中には結構見かける目つきだった。たぶん、自分を守るためにコワモテを演じる場合の仮面のような意味合いかも知れない。一種の過剰な防衛反応かと思う。自分を守るために必要な表情、物腰の必要を感じながら生きていけば、やがてチューンアップされて、あんな人物が出来上がるということか?

最近はヤクザ業界が非常に不景気らしい。近所のヨゴレさんも廃業したのかバイトしているつもりか、普通の仕事に転職していた。事務所もだんだん少なくなっているような気がする。渡世のためには景気が良くて法律の規制が甘いことが必要だが、近年はすぐ訴訟が待っているのでうかつに活動できないのか?

遊興費を減らさざるを得ない時代なので飲み屋の売り上げも減っているし、外食は郊外のファミリーレストランなどに行くので、たかりにくい。個人商店のヤクザ家業の売り上げは減っているはずだ。化粧品や警備会社などに転業できなければ、厳しい。その点、熊本の某有名企業には先見の明があった。

映画の中の当時の風景も凄い。戦後間もない時期で、皆の服装もみずぼらしい。洗濯物が目立つのは、やはりクリーンングなんてできなかたったからか? でも懐かしい。写真で見る兄達の世代は、あんな格好をしていたようだ。兄のお古で自分が着た服も映画に出てくる子供達の服と似ていた。

主人公達二人の関係については理解できないものの、少しは想像がつく。私がジェルソミーナの友人なら、「あんなケダモノみたいな男といっしょに行ったらひどい目にしか会わないよ!ひもじくても家に留まれ!」と言いたいところだが、映画のためにはいっしょになってくれないと困る。ジェルソミーナも自分が不幸になりそうな嫌な予感を感じていたように見えた。

あんな目は日常よく見かける。私のクリニックでワクチンを接種する際の子供達の表情がまさにそれだ。親がウソついて連れてきたのに、いよいよとなると「注射される!自分は不幸な目に会う。」と気がつく、あのときの表情だ。

ジェルソミーナみたいな人間は、不幸と解っていても型にはまることが多い気がする。どんな納得の仕方をしているのか、この作品のセリフを聞いても解らない。いろんな理屈はあるんだろうが、人間は間違った理屈でも納得できるようで、不幸で安心する場合は結構あるようだ。皆が発想の転換をできるわけではない。

農家のご夫人がザンパノを誘惑するシーンもあったが、凄いバイタリティを表情やセリフで表現していた。確かにあんな女もいる。そんな互いの関係や思惑の表現がどれも的確だった。

悲惨だったり、乱暴だったり、バカみたいな行動に呆れたりしても、単に極端なだけで、あんな表情や行動は身の回りに見かける我々の表情と共通するものがある。そこに我々の心が動かされる。何か納得して、「あー、あの表情、あの気持ち分かるんだよな。」という気にさせる。よく出来ていた。

メロドラマは繰り返し作られているが、マゾヒスティックな感情に浸りたい顧客が必ずいるのだろう、安定した市場があるように思う。私もそのようだ。たいていは感動巨編というコピーが必ずついている。女主人公が純愛や裏切り、ワナにはまる、戦争に巻き込まれる、なんて不幸に陥ると、つい同情してしまう。

 

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