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2010年2月25日

1Q84(2009)

- リトル・ピープルは何? -

青豆はスポーツジムでストレッチなどを指導するインストラクターだが、陰では暗殺者として活動もしている。彼女に新たな殺人依頼が入るが、今回は新興宗教のリーダーがターゲットで今までのようには行かない。いっぽう、天吾は学習塾の講師だが、小説家を目指している。彼の元にフカエリと称する少女の小説を代筆しないかという依頼が来る。二人の物語はお互いが知らぬところで関係している・・・

・・・あのベストセラー小説が、ついに映画化!というのはウソ。これは小説を読んでの感想文。もし映画化されたという報道を見たら、空を見上げて月の個数を数えることをお勧めする。

月が一個しかないうちは映画化されないかもしれない。

よく理解できなかった。小説だから読者によって解釈が異なるくらいでないと奥行きが出ないとは思うが、多くを語っていないために尻切れトンボと感じる人が多そうな印象。いろんな解釈ができそうな壮大さは感じるし、主人公達を好きにはなれたが、感動したわけではない。

映画向きとも思えなかった。フカエリに相当する少女を探せるかどうかが大事だと思うが、月並みの演技ではインパクトにかけるので、キャスティングが大変だろう。テーマも映画向きとは言い難い。反発する人も多いと予想される。恋愛に絞ったら作れるかもしれないが、すると作品のレベルが落ちてしまいそう。

新興宗教は映画の題材には向かない。危険性、無理解、反発が必ずついて回る。映画の表現力では一面しか描けない。宗教の全体像を表現しようとすると、宗教側に好意的な描き方になってしまい誤解を招きかねない。文学のままが良いかも。

文学で扱うのも簡単ではない。好意的に描いたら、それだけで作品の質を落とす危険性が高い。この作品でリーダーが時計を浮かせる部分があったが、必要があったか判らない。青豆がリーダーを信用することを表現するためには必要かも知れないが、人によってはオウムの麻原=超能力者?という連想につながりかねない。描き方に違和感を持った。論点をぼかしてしまう。超能力は必要なかったのでは?

人物の存在感、実在しそうな印象が大事だが、彼らの会話が非現実的だった。シンフォニエッタという曲の由来を知っている人は、相当なクラシックファンではないか?普通の人は曲を知っていても由来は気にしない。そのための本なども見ない。登場人物の複数が同じ曲のレコードをかけるのは珍しい。偶然の関係を連想させるためとしても、必要かどうか疑わしい。現実感を損なうのでは?

同様に、婦人警官やボディガードが文芸論を展開するのも不自然に感じた。繰り返し読まない限り普通は筋も忘れてしまうものではないか?作者と登場人物が同化してはおかしい。人物によって趣味も興味も違うはずだから、彼らが語るはずである言葉、内容を人ごとに区別し、実在感を出さないとおかしい。

個性的な話し方、偏った知識やその内容から何かを表現するように徹するのが普通ではないか?婦人警官やボディガードは実在しそうな人物像ではなかった。

天吾の父親の認知症の表現も気になった。典型的な症状ではないようだ。リーダーが饒舌すぎるような気もした。セリフを制限して、印象的な単語の羅列で人物像を表現すべきではなかったか?ベラベラしゃべると、威厳や迫力が薄れる。

編集者の小松、天吾と交渉する牛河にはキャラクターとしての存在感があった。悪役の描き方が素晴らしい傾向があるようだ。

サリン事件の頃の奇怪な集団という程度の認識しかなくて、オウム真理教のことはよく理解できなかった。文学的に彼らの行動を表現するとこうなるのか知らないが、社会心理学的に説明したほうが判りやすいように思う。彼らの心理は、文学で表現すべきものではないのかもしれない。

かって冷戦時代のソ連の指導者はスターリン型の強烈な存在だった。個性を感じる怖い存在で、有無を言わせない雰囲気、実際にも長く強力な手を持っていたようだ。権威、監視、高圧的な体制などをイメージさせる「ビッグ・ブラザー」という言い方がオーウェンの「1984」では使われていたらしい。読んだことはないのだが・・・

リトル・ピープルが意味するものは、たぶん尊大さを失い集団指導体制に形を変えた現代版ビッグ・ブラザーではないかと思うが、強烈さがない代わりに「ほうほう。」と合いの手を入れるノリや、集団で行動する性格など、スターリン以降の集団的指導者像を象徴しているような気がする。あの「ホウホウ」は良かった。

ラスト近くで現れる「空気さなぎ」は、カリスマ的なものに対する我々の精神反応を表現していたように思ったが、よく解らない。表現方法には説得力不足を感じた。

小説の構成方法は素晴らしかった。関係なさそうな二人の関係が徐々に明らかになることと、複雑で怖いスリラー的な設定が絡んで、いにしえの神話の現代版、壮大な叙事詩といった印象を受けた。だから映画化するときは、「ロード・オブ・ザ・リング」のスタッフを連れてくるべきだ。

下の写真は、教団に侵入しようとする主人公・・・てな具合。

Photo

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