映画評

  • 当劇場は劇場主のための映画館です。訪問者を期待しておりません。内容の客観性、正確性は保障できません。でも、真摯な批評を目指します。

劇場主

  • 乙女座 AB型 どの占いでも最悪の運勢 内科クリニックやってます。

Conflict of Interest

  • 特にありません。

おことわり

  • 当劇場は誹謗中傷を目的としておりません。もし権利を侵害されたと感じられた方は、申し訳ありませんが管理会社や公的機関に御相談ください。

« 社長道中記(1961) | トップページ | 扉をたたく人(2007) »

2010年2月18日

砂の器(1974)

- カメラワークは? -

監督 野村芳太郎

殺人事件が発生する。被害者の身元は不明。持っていたマッチから立ち寄った店が判り、そこでの会話の中に「カメダ」という地名があったことしか手がかりはない。刑事は東北や山陰を調査して、徐々に犯人を特定していく・・・

・・・よくも考えついたものだと感心するアイディア。東北弁や列車などの細かい材料がからんだ展開の仕方も複雑でなおかつ明快。皆を納得させる力がある。

前半は実際の捜査のように地道に話が進むが、手がかりがなくて進行が非常に遅いので、それによって一種の臨場感を得られる効果があった。さらに後半で明らかになっていく人間模様や、過去の不幸な歴史が話しに重みを持たせる。よい題材、良い展開だった。

松本清張は天才とでも言うべき小説家だった。ほとんど読んだことはないのだが、色んな作品が映画やドラマの題材になっているので筋はたいてい知っている。人気だけじゃなく、オタク的な知識と展開の上手さも凄かった。作品の展開の仕方もよく考えてあって、練りに練った感じがする。

名作と言われるこの作品は、家族で観ることも可能かも知れないが、子供には向かないと思う。恋人と観るのも、やや古くなってテンポに違和感を感じる点があるので、やはり向かないと思う。古い映画を好きな人でないと受けないのでは。

若かった森田健作や加藤剛が出演し、いい味を出していた。島田陽子が出演しているが、公開当時で21歳なので、肌がピチピチすぎて薄幸な役柄に合わないような気がする。後年、本当に薄幸になった頃のほうが女優としては魅力的だった。

Katou

最高なのは、加藤嘉の父親だろう。父と子供が托鉢スタイルで冬の浜辺を旅する姿は演出も良かったのだが、彼の風貌や所作にインパクトがあった。父親であることを隠すシーンで号泣する姿もグッと来る。しかし、本当に20年以上も前に分かれた子供の姿を写真だけで判断できるものだろうか?まだ6歳くらいの時に生き別れになったはずだが・・・

加藤嘉の迫力は、演技力以前の独特の風貌、極端にやせた体、話し方などにあるのかもしれない。役者になるために生まれてきたような個性だった。頑固な老人の役、死にかけた人物の役をさせたら怖いくらいの迫力だ。この映画の頃は61歳だったらしいが、後年70歳くらいの時は、さらに病的で怖かった。

カメラワークが気になった。

例えば列車の中で撮影する場合には手持ちカメラでは揺れてしまうから、相当強固に固定しなければいけないが、列車が揺れるたびに画面も揺れて、いかにも撮影していますと判り、臨場感が損なわれる。固定が不十分だったようだ。国鉄から許可が下りなかったのか?

人物を写した後、風景を写すためにカメラを引く際に、微妙に中心からずれることが多かった。おそらく人間の手でやっていたからだろう。左右上下の動きを完全に止めて、焦点や距離だけをスムーズに変える操作は、できればコンピューター管理でやって欲しかった・・・って言っても当時はコンピューターなんて使えなかったので無理。

いっぽうで、下の写真のように逆光のなかで砂の器を作るタイトルバックは美しい。器が壊れることまで写すなんて芸が細かい。はかない彼らの運命を象徴している。芸術センスにコンピューター技術が加われば完璧だったはずだが。

Photo

今なら機材が進歩しているので、もっと美しく撮影できるはずだ。重厚な作品は、車の高級さに似ている。妙な振動があると、高性能の車でもチャチな印象を受けてしまう。だからどん臭いほどにゆっくりしたカメラワークが結構よい味につながると思う。カメラを扱ったことがない自分が批判するのは心苦しいが、良い映画にする決定的な要素のひとつは、我々が普段やっている無意識の視線の移動をカメラで再現できるか、注意を誘導できるかどうかだと思う。

「アバター」で人間の戦闘機集団が原住民に迫ってくる時、初め遠景、ついでフォーカスを戦艦に集中させるシーンがあった。子供だましのような手口だが、我々が物を見る時も同様に何かに気づいて注目している。何かに注目して欲しければ、そちらにアップを回すのが原則だ。ゆっくりやらないと目が疲れてしまうし、あんまり繰り返すと逆効果だが、基本的な手法だから使うべきだ。それが高度にやれれば、たいした内容がなくても、不思議と共感できる。画面を我々の思考に同化する~させるわけだから当然だが。

「砂の器」は近年、スマップの中居君主演で作られたらしいが、そちらは見ていない。あんまり期待できないような予感がするからだ。

この作品のファンは多いが、どうも味わいのようなものが最後まで維持されていないような気がする。何かが感覚的に違う。タイトルバックのような芸術的キレが全編に漂っていない。親子が雨風にうたれながら旅をするシーンや、謎解きの要素など、題材としてこれ以上ないほどだが、途中はテレビドラマのような雰囲気になる。一般受けを狙って意図的にそうしたのか、カメラワークが原因か判らないが。

丹波哲郎がにやっと笑うのは人間くさくて良いのだが、この作品の雰囲気に良い効果があるとは思えない。雰囲気の一貫性には悪影響を及ぼすと思う。喜劇的なシーンでも、運命などを予感させる暗さを秘めた感じを出すべきではなかったか?「アハハ」と笑っても、一瞬真顔になるといった単純な演出で一貫性を維持できたのでは?

中心が犯罪者の宿命なら、刑事はむしろ悪役でよい。性格的にしつこすぎて嫌われ、署内でも浮いている、風貌も悪役そのものの刑事が、二枚目の犯人を追い詰めるってのはどうだろうか?安っぽいか?でも、一貫性は維持できる。

コンサートのシーンで終わるなら、最初からコンサートの練習光景から始めるなどの工夫もあったはずだ。

編集の割り振りにも少し疑問が残った。音楽会の場面は長すぎたと思う。演奏も曲も良かったが、苦難の宿命を表現するのに音楽だけでは無理だ。比重をかけすぎていたと思う。カメラの位置を頻繁に変えて、落ち着きが失われたとしても、観客が飽きる可能性を低くすべきだった。

加藤嘉か加藤剛のいずれかに刑事が質問し、親子ではないか?と尋ねて「知らない。」と答えるシーンをラストにしても良かったのではないか?随分考えた後ハッとして泣くなども良かったような気がする。視力障害や認知症がないとおかしいからだ。

話の根底にある「ライ病」の歴史が重い。最近まで熊本には隔離施設があった。既に1950年代には「ハンセン氏病」という呼称に変えるような運動が起こっていたのだが、日本の法律が改正されたのは平成8年というから驚く。

差別の激しさも想像がつかないほどだが、よく耐えて生きていられたと驚く。療養所内でも虐待に近い行為が合法的に行われていたらしい。精神的におかしくなる人も多かったらしいが、それは隔離されたという自分の宿命を呪ってではないか? ほとんど収容所のようなものだ。

迷信のようなものに左右されて国の対策が遅れるのが常だが、それにしてもひどいと思う。誰かが責任をとったという話は聞かないが、医者や役人の中には本来なら無為の罪で有罪の人もいるのでは?例えば、療養所担当の医師は、文献などから医学会の変化と現状が合っていないことを訴える義務がなかったろうか?大学の皮膚科はどうだろうか?学会はどうか?

 

« 社長道中記(1961) | トップページ | 扉をたたく人(2007) »