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2010年1月11日

アバター(2009)

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- 3Dには支えが必要 -  監督 ジェームズ・キャメロン

海兵隊員の主人公は戦闘で下半身が麻痺して車椅子の生活。彼の双子の兄弟は科学者で、惑星パンドラで仕事をしていた。彼は兄と代わって仕事を引き継ぐことになるが、その仕事とは惑星の原住民とコンタクトを取って、地下資源の採掘を成功させる=住民を追い出すことだった。彼は特殊な機械を使って原住民の化身(アバター)と同化し、潜入するが・・・

・・・インパクトのある作品。その強烈さは、近年稀に見るレベルだった。2100円払っただけの価値を確かに感じた。映画に多少でも興味がある方は、ぜひ観てみることをお勧めしたい。

内容のレベルは「ダンス・ウィズ・ウルブス」や「もののけ姫」「天空の城ラピュタ」などに及ばないかもしれないが、とにかく飽くなきこだわりによって緻密に作られた映像の凄さは、他の映画を圧倒するものがある。

同監督の「タイタニック」の時には日本人のCGアニメーターも参加していて、数百人の乗客の中のひとりの位置に関して監督から小言を言われて呆れたという話が書いてあったが、今回はそれ以上にこだわって細かい注文を付けたのかも知れない。景色や表情、一挙一動にわたるまで的確な処理がされている。

下記のような景色には荘厳さを感じる。植物に対しても敬意を持って描かれていたように感じた。

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監督のコメントによれば、最初は数十人のスタッフで原住民や星の大まかなキャラクターを設定し、後は数百人のテクニシャンを動員して作業したらしい。俳優達も自分がどんな異星人と向き合っているはずなのか、さっぱり解らないまま演技をしたそうだが、違和感がないところをみると、顔の向きや目線に至るまで監督達が細かい指示を出していたに違いない。

そんなオタク精神は、今回も素晴らしい効果をもたらしていた。原住民も怪物たちも、ほとんどアラが見当たらないレベルの自然な動作をみることができた。アバターになった直後はぎこちない動きをしていた主人公が、徐々に滑らかな動きに変わっていったように見えたが、計算ずくでやっていたようだ。自然さが失われると、大事な部分にまで影響を及ぼすので、オタクのこだわりも重要である。

日本の芸術家達は、もっと凄い芸術的感性を持っているが、いかんせん資金力やこだわれるだけの人的、時間的余裕に欠ける。せいぜいアニメで対抗するしかない。さっすがキャメロン監督、さすがアメリカ。経済危機なんか関係のない、底知れぬパワーを感じる。

3D映画は始めて観たのだが、メガネが重くて疲れてしまった。メガネを通すと画像が暗くなってしまうので、目が悪い自分にはこたえる。今後は普通の画像版に限定するか、もしくは3D映画の画面自体を明るくするか、何かの工夫をしてもらいたい。

観終わった後、首が回らなくなっていた。寝違えと同じような症状である。次回はメガネか首の支え棒を持ってから観るしかないのか・・・

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作品のテーマ自体は斬新とは言えないが、いたってマトモである。常識的な感性だと思う。原住民はさながらインディアンそのものだ。醜いと言えば醜い姿のキャラクターを作ったが、動作や表情などは見事に共感を得られるだけのレベルに人間臭く設定されているので、大半の人は嫌悪感を感じないで済むようだ。多少は感性の個人差によって、共感できない人もいるかもしれないが、適正なレベルの異形だったと思う。

原住民のキャラクターが滅び行くインディオ達を連想させるので、ストーリーには好感を持てたが、例えばラストで本当に原住民が滅んでしまったら、どうだったろうか?嘆き悲しむ少数の生き残りが、共に戦ってくれた人間に感謝するが、戦いは本物のインディアンと同じ結果だった・・・なんて話のほうがレベル的には上がるだろう。興行的には最悪かもしれないが・・・

髪の毛を絡ませれば直ちに動物達と意志が通じる・・・これも考え様によってはちょっと幼稚な設定かも知れない。必要があったのか、多少の疑問を感じた。むしろ原住民同士、または原住民と守りの木などがお互いの感情を通じ合わせる手段だけなら神聖な感じがもっと保てたかも知れない。

原住民の中に子供や老人らしき姿が少なかったような気がしたが、何か意図があってのことだろうか?子供の姿は万国共通で愛らしく、効果的だったと思う。「ダンス・ウィズ・ウルブス」でもそうだったが・・・

さて、利権や資源を求めて戦いを挑んでくる勢力の歴史は古いが、最近ではアメリカや中国が代表的な勢力だ。アメリカの場合はインディアンを壊滅させてしまった歴史がある。中国はチベットやアフリカに進出して覇権を確立しつつある。

アメリカの場合は特殊で、アメリカ人といっても、いろんな人間や勢力があるはずだが、企業集団などが効率の良い殺戮手段を持って、映画のように圧倒的に攻めていたことは事実だ。いろんな人が指摘しているが、国家と言うより企業が戦争を起こしているように思える。アメリカ国民は、もともとプランテーションで働いていたような存在なので、今も社員、雇われ兵隊、契約者に過ぎないようだ。

我々日本人は攻められて屈服した側なんだが、洗脳されているので敗戦も仕方なかったような気になっている。幸運なことに、旧日本軍よりもアメリカのほうが理にかなったことをする点はあったし、負けた相手を全滅させないという方針のおかげで助かっている。敗者側への教育、宣伝などにも熱心に取り組むローマ以来の伝統のせいで、アメリカを悪く言う日本人は少数派だ。我々も、一種の契約社員のような存在で生かされている。

「生きていることに感謝すべきだ・・・」といった宗教的な指導も、場合によっては支配者側の教育的指導の側面がある。野蛮人たちが暴れても、彼らは彼らなりに誇りを持ってやっていることだから、一概に否定はできない。

こんな誇りのない日本は嫌だと反抗すれば、本来は仲間のはずの日本人から徹底的に叩かれてしまう。精神的な自立も大事だが、経済的に成り立たないといけないので、強国には歯向かいにくい。田中角栄や細川総理の時に、多少本来の国家像を目指した動きがあったようだが、たちまち潰されてしまった。今の鳩山政権も危ういかも。

資源や市場のためには平気で戦争する集団を相手にしたときは、当然ながら戦いの仕方がある。真正面から素手で戦うような真似はして欲しくない。

そんな国の代表であるアメリカがあるからこそ、こんな映画を観ることができるってのは、もしかして大いなる矛盾、皮肉か?

 

 

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