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2010年1月20日

ロレンツォのオイル(1992)

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- 驚きの執念 -

銀行員の夫と専業主婦の妻との間には息子ロレンツォがいる。彼らの家族はアフリカ出張から帰り、ワシントンに暮らす。ところが子供が難病のひとつ、副腎白質ジストロフィーに罹患していることが解る。治療法は不明。子供は日に日に症状が悪化していく。専門家も頼りにならないと、夫婦は独学で治療法を研究する。問題は脂質の摂取割合にあるらしいが、治療に使える油は簡単には入手できない。夫婦は様々な抵抗を押しのけて、新しい治療法を開発していこうと努力するが・・・

・・・驚きの映画。非常に稀な例だとしても、この夫婦の行為は賞賛されるべきだ。子供は幸せになったのか?気持ちは無視したのでは?・・・などと批判すべきではない。最も大事なのは、医者として、自分も陥りがちな常識的パターンが、思い上がりや誤謬を含んでいることを反省しないといけないことだ。 

ロレンツォ君がかわいらしい。あんな子供が不治の病に罹ってしまうなんて、何の楽しみも味わえないで、苦しみながらただ生きていくなんて運命は、見ていて耐え難い。

知人の一人が、まさにそうだった。子供さんが先天性の異常だったのだが、明らかに精神的な安定を失い、運命を呪っていた。私だってそうだ。自分のところで信号が変わったくらいで神様に文句を言うくらいだから、子供に不幸があったら正気を保てる自信はない。

結局ロレンツォは30歳まで生きて、2008年に永眠されたそうだ。しかし、早期に治療を開始できた子供達は、進行を遅らせることができるようになったらしい。それにしても両親は驚くほどの執念を見せた。とても真似できない。

夫婦が直面する壁の表現が秀逸だった。実際に起こった専門家達の反論を、そのまま再現しているのかも知れない。もちろん当事者達は存命だったはずなので、露骨に悪くは描けなかったかもしれないが、反論してくる人達の意見ももっともな内容で、常識に捕らわれすぎているのは間違いなのだが、新しいことをしようとする人には壁のような態度になることが、非常に上手く表現されていた。

昔、私がインフルエンザの時に坐薬を使わないようにしようと言っただけで、総員から反対、バカ呼ばわりを喰らったこともある。人工呼吸の途中で心臓マッサージを止めるなと言っただけで変人扱いされた。新しい考えを導入しようとすると、皆が真面目に間違っていること、真剣に壁になろうとすること、そのくせ個々人は自信がないことに気がつく。「反対!絶対間違っている・・・・よね?」と周囲に同意を求めるのだ。我々の理解力など、知れている。

夫婦の方針に抵抗している人々が、悪意を持って反論しているわけではないことは解る。夫婦の努力の仕方のほうが異常と言えるほどで、通常の感覚の持ち主なら、自分達で治療法を編み出そうなどとは考えない。そんなことをしようと言い出したら、警察に連絡されるのがおちだ。 図書館で調べたくらいでは、実際のところ古い記録で使い物にならない情報しか得られないのが普通だ。

熊本大学の図書館はひどかった。少し珍しい文献になると、もう皆目探せない。結局は慶応などの図書館から取り寄せないといけない。結果、そのような作業に疲れてしまって、本当の研究が遅れてしまう。したがって、この夫婦の住所がワシントンでなければ、いかに開明的な米国といえども、文献を検索することはできなかったかもしれない。

だから、やはりこのケースは本当に奇跡的であろう。ほとんどの場合は失敗する運命になるはずだ。

遺伝子が関係している病気の場合は、多くは治癒は無理。したがって医者も「軽快しても結局は子供を長期間苦しませるのは・・・」と、積極的な治療には尻込みしがち。よほど根拠が明らかで成功する可能性が極めて高いという自信がないと、なかなか冒険的な治療はできないだろう。結果として見捨てているのだ。

食事の脂質の配分を変えても、いったん変性した神経は体内で免疫的に処理されるはずで、常識的には延命効果しかなく、治癒は期待しにくいはずだ。現在でも治癒させる方法は発見されていないと思う。遺伝子を調べて、発症する確率が解れば予防するというのが限界ではないかと思う。将来は酵素を発現する細胞を移植する方法も考えられるが。

症状が進んで回復が難しい状態に自分の家族がなってしまったら、果たして諦めがつくだろうか?やれるところまでやる場合は、常に「子供にとっての幸せは、このまま寝たきりなのか、安らかな死なのか?」という疑問が付きまとう。

結局は・・・という考え方が必要な場合もある。積極的な医者がやりたい放題やると、無駄な行為をガンガンやってしまうからだ。今は医療界も反省して終末期ケアという発想が主流になってきたが、昔は麻薬を使うのにも激しい抵抗と批判を受けていた。無効な治療は止めようと言おうものなら、院長に告げ口されていた。

いっぽうで諦めが早すぎて助かる命を見殺しにする可能性もある。ケースバイケースで判断をするしかないと思う。

末期癌患者が延命目的の手術を受けることはある。何かチューブを入れて、とりあえず黄疸や閉塞を軽減する目的などの場合だ。しかし、自分なら受けたくないと思う。手術で数ヶ月寿命が延びても、自分はあまり意義を認めない。でも数年なら、意義が変わってくる。数年の間に会える人には会うし、家族と時間を過ごせるなら意味がある。

単純にいっさいの延命行為が不要とは言えない。何年分の効果があるかにもよるのでは?予想できる効果を示して患者側に判断してもらうのが普通だろう。でも、その言い方が問題だ。話す医者の能力も問われる。ほとんどの場合は医者も勘違いしていると思えるからだ。

 

 

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