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2009年5月 4日

スクール・オブ・ロック(2003)

- 適切な判断 -

ロックバンドをクビになった中年ロックオヤジのジャック・ブラックが、小学校の教員になりすまして巻き起こす騒動を描いた作品。ジャック先生は、まともな授業など完全に無視して子供達にロックを教える。どうやら彼は子供の成長などには無関心らしく、賞金だけを目的に子供達とバンドコンテストを目差す様子。ところが子供達には才能があって・・・というストーリー。

なかなかの傑作だった。脚本は、主人公の同居人役で出演もしているマイク・ホワイトらしいが、そもそものアイディアが誰から出たのだろうか?ジャック・ブラックの映画仲間が雑談でもしながらギャグを散りばめる形で作り上げたように想像する。

相当なヒットだったようで、制作費の4倍以上の興行収入を得たようだ。この作品はいちおう家族で観ることができる。あんまり教育上はよろしくないような気もするが、毒々しいジャック・ブラックの個性を上手く家庭向きに制限し、ギャグの世界に止めている気がする。セックス、暴力、暴力、差別のような、お茶の間に出すには問題がある話題は避けている。今の映画で暴力がない作品は少ないが、この映画には暴力シーンがない。珍しい教育的(?)作品なのだ。恋人といっしょに観るのはお勧めだ。今の若い人たちでも、これは楽しめる。

この作品が上手くまとまったのは、いろんな判断が適切だったからだろう。普通なら、堅物の校長と主人公が意外な恋愛関係に発展するおかしさを狙いたいところだが、そんな安易な道を選択していない。ロマンチックコメディにジャック・ブラックの毒が合わないので、結果的には良かったと思う。

あんまりテキストパターンの感動を狙っていないことも良かった。生徒の成長物語を中心に描くと、これもジャックの毒に合わない。あくまで中心は毒々しいギャグであるべきなので、その中心をぼかすような愚を避けたのは適切な判断だった。

また、これはサクセスストーリーと言うこともできる。子供達が上手くなっているからだ。最後に素晴らしい演奏を成功させると、それだけで我々は嬉しい。この演奏の上手さは映画の成功に必要だったが、彼らは見事にやってのけていた。

ストーリーの中で、精神的に成長したとか、悩みを解消したという面もあることはあるが、それは深く追求していない。主人公が勝手に自分のために子供を利用しているだけである。最後まで下手なままで情けない結果に終わっていたら、子供の心を傷つけただけで終わり、全てが台無しになっていたかもしれない。

この作品の成功の最大の理由は、何と言ってもジャック・ブラックの個性、ロッカーとしてのオタクぶりだろう。演奏を口で表現するバカぶりがおかしい。テレビタレントの芸を、上手くストーリーに反映することに成功している。これは友人でもある脚本家のマイク・ホワイトらが周到に?もしくは適当に芸を散りばめたからできたことだろう。

最後までジャックが子供の成長を考えていないこともいい。目標が生徒の成長であったら、話がくさくなってしまう。そんな感動モノは別な映画を観てもらえばいいのであって、この作品の中心はギャグにしぼったほうがいいのだ。最後の演奏がキマれば、それだけで達成感が生じる。それで充分だ。

ギャンブルをやろうとした生徒を引き戻したり、親に何事も強制されてシュンとしていた生徒を励ましたりしている点は確かに結果的には良い効果を生んでいるようだが、彼らの教育の機会を見事に奪っているので、完全なる犯罪行為、サギといわれても仕方ない。

ビートたけしの芸風に似ている。無茶なことをやり、世間の常識とは本当に外れているキャラクターで、悪役と言って良いヒーローである。ただし、ジャック・ブラックには芸がある。よりオタッキーなのめり込み、志村けんのような芸の激しさがある。

ロックは今や完全なる衰退にはまっているが、我々が子供の頃はロックの全盛期だった。まあ、当時でも「ロックは終わってしまった。」「今のロックには魂が抜けている。」などと言うオジサン達は多かったので、魂の問題を口にするようになったら、それは既にオジサン化を意味するのかもしれないが、今のロックは商業的にも黒人の音楽に駆逐されてしまっている。

R&Bも下火である。多少はR&Bやロックの音楽性を取り入れながら、ヒップポップやラップの表現を中心にしている歌手が多いようだ。ギンギンのロックは時代遅れになってしまったので、ロックにはまっている人間はオタクとしてしか評価されない。ギャグの対象でしかない。ジャック・ブラックはその代表だ。

日本には、この種の芸人はいないようだ。ローリーなんとかいうヘビメタの芸人がしばらくテレビに出ていたが、言動が過激だったわけではない。デーモン小暮は過激なメイクと言動で売っているが、あんまり演奏はしない。ギター片手に何でも歌にするのはギター侍などたくさんいたが、激しいギャグを飛ばし続けているとは言えない。サザンの桑田らがラジオでオールナイトニッポンに出演していた頃は、随分と激しい内容のギャグを飛ばしていたが、攻撃的なものではなかった。日本人には攻撃性は受けにくいかもしれない。

ロックは、ロック・アラウンド・ザ・クロックの時代は反抗や攻撃の性格はなかったはずなんだが、いつの間にか商業化したグループと、それらに対するアンチグループが常に入れ代わり立ち代わり、純粋さ、反抗精神を必須のものとするような性格になっていった。たまたまロックを好きな子供達が、社会の中では割と虐げられていた関係ではないかと思う。

だから、ロックをやるんだという子供には、「あんな音楽は不良の第一歩だ!やめろ!」という親と必ず大喧嘩をやらかしてしまうという戦いの歴史が続いた。ギター片手に町に飛び出していった若者は多かったのだ。私は子供時代に、彼らを尊敬していた。

シャウトを伴うロックの芸風が激しいことも、そんな傾向に拍車をかけたんだろうが、もしも演歌歌手がギター片手に飛び出したとしても、あんまり変らないような気がする。ロックだから反抗、演歌だから従順ということはない。音楽で食って行こうという決断には、世代間の対決がついて回るというだけだ。親から強制される路線に反抗して、興味のある方向に行こうとする、その分野がロックだっただけだ。

私は子供の将来を何も強制していないが、家内は誰かを医者にしようしようと話している。子供達にプレッシャーをかけるのは良くないと思うのだが、子供によっては単純に「ふーん。医者ってそんなに偉いのね。」と勘違いして、やる気を持つ場合もありえるので、結果はいいのかも知れない。ただし大事なことは、相手のキャラクターを考えてやることだ。

長男は母親が勝手に教育していたが、今は全く勉強していない。長男のような相手には甘やかしも強制も良くないと私は思っているが、家内が全く自己流でやっている。会話を聞いていると、言ってはいけないことばかり言っている気がする。甘やかしの極致で、生活態度をきちっとする人をバカにするし、宿題をやってあげたり、先生や学校を悪く言ったり、そんな教育はないと思うのだが・・・

我々は子供に対して、本当は過度の制限をしてはいけないのだろうが、自主性にまかせていたら平気で十年間くらいゲームをし続ける子供もいるので、結局は勉強を強制しないといけない。何か光るものがあると解れば、それを伸ばすことを目差すべきだと思うが、なかなかそんな能力を見抜くことは難しい。一通り、運動や勉強、芸術、工作などをさせてみるべきではないか?

例えば私が野球が好きで、勝手に子供の将来はプロ野球選手と決めてもいいような気がする。実際にプロでやっていける人間は少ないので、ほとんどは無駄に終わるだろうが、結果的にはなれないとしても、子供が辛くて耐えられないと判断するまでは強制してもいいかもしれない。もしほっておけばゲームばかりする子なら、ゲームをさせっぱなしにするよりはいいのでは?

病院の先生が、子供を医者にしようと強制してもいいような気はする。子供が絶対にイヤと言うなら、その時点で方針を変えればいい。医学部に行って、途中から方向転換する人も多い。医者がイヤなら研究者になればいいのだ。研究者は、熱中すれば本当に奥が深い世界が開ける。保健所の先生や、行政に関与する先生も、完全に役人だと言える。役人だから重要度が下がるわけではない。立派な社会の構成員だ。

自分で判断できる時点で強制するのは良くない。また、精神に影響するような強制は良くない。うつ状態になるまで厳しい指導をしては、長期的な影響が残ってしまう。その辺の加減が難しいのだが・・

こんな教室があってもいいようには思う。もちろん、教室への参加は自由選択性にしないと、子供の人生をメチャクチャにしてしまう可能性もあるのだが・・・

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