映画評

  • 当劇場は劇場主のための映画館です。訪問者を期待しておりません。内容の客観性、正確性は保障できません。でも、真摯な批評を目指します。

劇場主

  • 乙女座 AB型 どの占いでも最悪の運勢 内科クリニックやってます。

Conflict of Interest

  • 特にありません。

おことわり

  • 当劇場は誹謗中傷を目的としておりません。もし権利を侵害されたと感じられた方は、申し訳ありませんが管理会社や公的機関に御相談ください。

« 闇の子供たち(2008) | トップページ | スクール・オブ・ロック(2003) »

2009年5月 2日

デッドマン・ウォーキング(1995)

Photo

- 魂の救済の意味 -

死刑囚のショーン・ペンと修道女のスーザン・サランドンの物語。サランドンはボランティア活動として死刑囚と文通をしていた。ショーンの弁護活動をする人間がいなくなった関係で、スーザンは彼と面会し、再審請求に尽力することを約束する。

でも極悪犯人を弁護することで、周囲からは激しい攻撃をうけることになる。被害者の家族はもちろん、教会関係者にいたるまでから反感を買ってしまい、孤立する。しかし、彼女はキリスト教の教えに忠実に任務を果たそうと努力する・・・

・・・「デッドマン・ウォーキン!」と看守が声を張り上げる。デッドマン~は、死刑囚が処刑台に向かって歩く時の掛け声のようだ。

極めて真面目な、これぞ社会派という内容の作品。死刑制度反対というのが主要テーマなんだが、単純な訴えかけで終わらず、死刑制度賛成派の意見もかなり公平に紹介している。

作品の基本となる宗教的な意味合いは、日本人には解りにくそうに思える。これはキリスト教に関する知識や、その教えへの共感がないと感動の意味合いが変わってくる作品である。苦しい状況でも神の導きに従おうという精神がないと、修道女は偽善者か?という感情が生まれやすい。

主演のスーザン・サランドンはギョロ眼で目立つ存在だが、特にこの作品のラストで死刑囚とともに死刑台に進む時の表情は、さながらキリストの行進もかくあったのかと思えるほどの迫力があった。強い信仰心を表わして見事な演技だった。毅然としすぎずに、時に弱さを見せたことが成功だった。

根っから犯罪者みたいな顔をしたショーン・ペンの当たり役だった。日本にも名優はたくさんいて、迫力のある犯罪者役には事欠かないはずだが、そもそもこの種の映画を作る基盤がない。作っても意味が解らない人が多いだろう。三国連太郎は存在感のある悪役だったが、宗教的な救済を求められた作品はあったろうか?

原作は死刑制度反対論者のヘレン・プレジャン修道女の作品。制作費は1000万ドルくらいなので、約9億くらいか。意外に少ないような気がするが、やはりテーマがテーマだからだろう。でも、この作品は宣伝を見なくても私が知っていたくらいなので、いろんなところで論評され、結構なヒットにはなっていたはずである。アカデミー主演女優賞を獲得したことなどが宣伝効果もあっただろう。

とにかく大変な力作である。監督のティム・ロビンスは役者としては有名だが、監督業はベテランではないはずなので、学生時代のノリの延長みたいな作り方をしたはずであるが、心がこもっているせいか、あんまりアラが見えない。夫婦で製作しているから、意気込みも凄かったんだろう。

盛り上がりの作り方、音楽、カメラワーク、編集すべてにおいて名監督の技と区別がつかない。専門家が見ればテクニック的な欠点があるのだろうが、作品のレベルとしては充分なデキだったと思う。

死刑制度の是非はともかく、極刑に値する人物は多い。自分の家族が殺されたら、絶対に犯人を死刑にして欲しいと思うだろう。拷問もやって欲しいくらいだ。そんな時に死刑反対なんて自分が言える自信はない。でも、それを是としていないのが、キリスト教の教えである。この作品は、その基本的な視点から訴えているのだ。

ただし、よく読んではいないのだが、聖書の中にも是ではないけど、はっきり死刑はダメとは書いていないようである。あれだけキリスト教精神を重視するアメリカで堂々と行われているくらいだから、きっとそうだろう。

実際には、キリスト教が多くの人間を殺してきた歴史がある。イスラム教との戦いはもちろん、ヨーロッパの宗教戦争、新大陸の征服などなど、激しい殺戮に強く関係してきて、我々には不思議なくらいである。

映画でもそうだ。敵を殺す時に、「主よ、我々の敵から私達を守りたまえ。」などと言いながら、ガンガン銃を撃っている。「ゴッドファーザー」の復讐場面や、「プライベート・ライアン」のなかで狙撃兵がさかんに祈っていた。相手が本当に神の敵なのかは疑問だったが。

魂の救済という表現、それにこだわる姿勢は我々には解りにくいが、キリスト教徒なら解る。キリスト教徒は、ある意味ではキリストを見殺しにした人達の末裔であるので、原罪の意識はあるだろう。かって迫害されても信仰を捨てなかった歴史もある。「魂を救済する。」ことが彼らにとっては極めて大事なことだったからこそ、迫害に耐えられたのだと想像する。

あらゆる奉仕も、根本はそれによって自分の魂を救済することが目標ではないか?罪人の魂を救済することで、罪深き自分が救済されるとも言える。我々の感覚では「罪は償わなければならない、責任は取らなければならない。」「犯罪を犯した人間の救済など無意味。」という単純な論理が先に立つが、彼らにはほっておけない救済の問題がある。前にも書いたが、罪に関連して、近々始まることになっている裁判員制度の重大な問題のひとつが私達の職業、世間との関わり方である。

私のように不特定多数の人間と会う職種の人は裁判員には向かない。基本的に狭い町では難しいと思う。裁判員制度の詳細は欠陥が多いし、いいかげんで考えの足りない規定が多い。そもそも、お互いに顔見知りの人同士が裁く側と裁かれる側に分かれれば、純粋に法に基づいて判断するのは難しい。

アメリカのような国では宗教や人種も様々な関係で、何かを話し合おうとしたら法律しかないという面があり、大多数の人は最終的には法律に忠実だが、日本の場合は法律よりも慣習や「お上のお達し」、「法に縛られない情け」に忠実に生きてきた歴史がある。「法律が何であろうと、私は友人を無罪とする」、もしくは「友人を殺した犯人は無条件で有罪。」「皆が有罪と思っている人は有罪。」「どんなに悪事を働いても、近所には情けをかけるべき」といった論理がまかり通る。

熊本の場合は、高校が同じ人を応援するという極めて田舎的な伝統があるが、これも一種の超法規的気質の表れだろう。法律のことを厳密に主張すると、「杓子定規で、人間味のない人」ととられる。そもそも日本の場合は、法律の内容が住民の権利を保障するより、権利を縛ることを目的に作られてきた経緯があるので、余計にそうなる。

総じて言えば、歴史が作った伝統が、裁判員制度の支障になる。裁判官の選び方には不透明な部分が多いので、裁判官を裁く裁判は必要だと思うが、法律自体が総代わりしないかぎり裁判員制度は機能しにくいだろう。でも、反動的裁判官にすべてを任せたままというのは最悪なので、導入するのも仕方ないかも。究極の選択か?

裁判員制度が、日本的な庶民の関係を壊す引き金になることも、ありえないとは言えない。つまり「法律よりも人情に基づく隣人関係」を重視していた時代は去って、人情はともかく法的に隣人をさばくのが当然よ、という精神がより濃厚な社会になるかも。

そもそもの死刑制度だが、私は心情的には死刑に反対である。やはり誤認逮捕や証拠のでっち上げ、法廷闘争術による判断のミスなどによって、間違った判決を下される可能性があると思うからだ。

かって検察官をしていた人物が書いた本によると、警察官が犯罪現場の現金に手を出すなどは珍しいことではないらしい。それなら、「この証拠品は現場にあった。」などと言われても、それが警察官が置いた物でないという証明は難しい。功をあせった警察側のでっち上げの可能性は常にあるからだ。

救急外来でお世話になる警察官の判断レベルは非常に低い。例えば、目の前の死体を見て死因が何かを推理していく作業は、我々が病気を見て病態を推定していくレベルにはるかに及ばない。彼らは「外傷がないから自殺である。」みたいな単純な論理でストーリーを作り上げる方法を取りたがる。

医者でもそうだ。医療関係の雑誌に出てくる症例検討の際の発言のレベルは似たようなものだ。断言できないことを断言している。医療現場では、ありえないことが頻繁におこる。超一流の先生であっても能力に限界がある。症状や所見がない重大な病気は多く、さらには学問で解っていないことも多い。

だから我々は、所見が陰性だから病気ではないとは考えない。「肺炎では咳が出る、だから咳がない場合は肺炎ではない。」式に考えない。「食欲が落ちれば高齢者の場合は肺炎を否定できない。他の感染や、胃潰瘍、癌、認知症・・・もありえる。」と、考える。陰性所見、陽性所見の意味を判断しながら考えるべきなのだ。この病気で所見が出る確率は何%、現在の流行具合はどれほど、この人の持病は何、体力と性格、生活習慣と考え方、家族の影響その他もろもろを頭に入れながら、しかし素早く判断しないといけない。

医者も往々にして大きな誤診をやってしまうが、警察官も検察も同じである。間違って犯人と考えてしまったら?犯人自身が、恐怖のあまり罪状を認知してしまったら?ありえないことが起こるのである。にくい犯人であろうと、殺してしまって、後で実は終身刑のほうが適切だったと解ったら、いったいどうすればいいのだ?

判断には専門的な知識、能力も必要だが、根本的な科学的判断力、想像力と思考能力が必要であろう。容疑者のうそを見抜き、証拠が間違いかも知れないと考え、証言の信用性、検察側の作為の可能性を見抜く力も必要である。それは基本的な洞察力のようなもので、学力とは一致しない。でも、そんな能力は誰にでも備わっているものではない。

検察官や裁判官が現場におもむいて捜査をやり直したなんて話は聞かないが、正確な判断をしたければ行かないでどうやって判断するんだ?医者が患者さんを診察しないで看護婦さんの報告を聞いて治療していくようなものではないか?いかにトレーニングされた看護婦でも、新しい見かたに習熟しているわけではない。同じように、捜査官にも勘違いはありえると思う。

究極の悪党、根っからの犯罪者の被害にあって、仮に私が「こいつは絶対に更生することはない、神や社会を敵視し続けるだろう。」と確信したとしても、その確信は間違っているかもしれない。この映画では、それを表現していた。その表現力が凄かった。それに感動するなら、やはり死刑は望ましくないという意見になるが・・・

この作品は子供には向かない。名作と思うのだが、恋人といっしょに観るのもお勧めできない。何事も深く考えたがる向上心豊かな人や、なにか信仰を持つ人には向くかもしれないが、一般の日本人には深く理解し難い点がある。

 

« 闇の子供たち(2008) | トップページ | スクール・オブ・ロック(2003) »