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2009年5月12日

華麗なるギャツビー(1974)

- レオさまが演じたら? -

ニューヨーク郊外のロングアイランドのお屋敷で、今夜も派手なパーティーが開かれている。屋敷の主人は謎の富豪ジェイ・ギャツビー。あるものは彼はロシア皇帝の子孫と言い、あるものはヤミ酒成金と言う。でも、そんなことはどうでもいい。楽しく飲んで騒げるのなら、と皆が思っている。

屋敷の隣家の証券マンであるニックは、ある日ギャッツビーに招待される。ギャッツビーは、どうやら従妹のデイジーに会いたいらしい。さっそく彼女と引き合わせたのだが、なんだか彼らには過去のいきさつがあったようだ・・・

・・・華麗なる、と邦題を付けたのは正解だった。原題ではグレート・ギャツビーとなっているから、ちょっと意味合いが違うように思う。映像の具合からすると、華麗なるのほうが悲しく、美しい響きがある。

富に対する思い、特にそれが恋と関係している時は、何かせつなく感じさせる。

漠然とだが、リッチ=もてるという常識がある。金儲けをしようと頑張る人間は、基本的にはもてたいという欲求が根底にあることが多いと思う。その相手が不特定多数の異性なら、ただの助平な欲にまみれた人間の所業ということになるが、特定の人の気を引くために命がけで金を儲けるなんてのは、感動を生む設定だ。純愛物語になる。

それが裏では人殺しや違法行為を働いていた場合、そして罪が暴かれて没落していく場合、それはすぐ物語になる。華やかなパーティーや、シャレたダンス、ジャズなどが彩りを添えれば、もうヒットは間違いなし!そんな安易な狙いで製作された作品だろうが、狙い通りに素晴らしく仕上がっていた。

終わりと中盤で流れる曲も良かった。ストーリーとミスマッチな能天気な歌詞の曲で、時代も合っている曲だ。この選択はシャレている。当時の気分を表わして、この上ない曲だと思う。音楽担当のハリー・コニック・Jrのセンスだろうか?

壊れかけた眼鏡の看板が出てきて、これが作品の中でシーンが変わるたびに使われている。神の目のような見透かした目で、神秘的な印象を出すのに効果的である。現代では神の目も看板のようにカスタマイズされているようだ。これも雰囲気を上げる効果があった。

主演はロバート・レッドフォード。当時の大スターだった。ヒロインのミア・ファローは、ローズマリーの赤ちゃんのほうが有名で、この作品では中心的に描かれてないようだが、なかなかの名演だったと思う。役柄としては身勝手で気まぐれで、好かれるような役ではないんだが、実に自然に演じている。この女性の描き方が、この作品のデキに直結していたと思う。

存在するだけで皆が注目するような、かわいいと誰もが思える大スター、もしくは肉感的な女優が演じてくれたら、その女優はイメージを損なうかも知れないが、映画の魅力はもっと上がったかもしれないと思う。「彼女のような悪女には、純真な男が騙されてしまうんだよなあ。」と感じることが自然にできるからだ。でも、その半面で安易なラブストーリーになってしまう危険性も高い。

シャロン・ストーンのように計算していることが見える本当に冷たい女ではなく、議論すれば簡単に負けてしまいそうな、弱々しく頼りなさそうな艶めかしい悪女、女性特有の愚かさを持つが、かわいらしい感じのする女優がいいと思うんだが・・

実社会での多くの女性は、きっと一生懸命生きているんだと思う。倫理的な生き方に囚われては、自分の人生が光を失ってしまう、もっと人生を伸びやかに、楽しく、または充実して生きたい。そう願うのは間違った考え方ではない。時には人を裏切り、傷つける結果となっても、悪気はそんなにない。自分の望みに忠実なだけである。

誰か一筋に賭ける一本気な愛はイヤだわ、無理な生き方はできないわ、遠慮ばっかりの生き方は息が詰まるわ、金持ちの女は貧乏人とは恋をできないのよ、というのも間違いではない。それくらいないとダメだ。

もし恋に忠実に生きていくなら、ひょっとすると刑務所にいっしょに入らないといけないことになる。そうなら、ちょいと打算を働かせてもいけないことはないじゃん、自分から苦しい道に進むのはおバカよ、ってな考え方。そんな生き方に関して、少なくとも他人にとやかく言われる筋合いはない。

この作品、極端に言えば主演はレッドフォードでなくても良かった。今なら、おそらくはトム・クルーズやディカプリオが好んでやりたがるような役である。ディカプリオのほうが、いかにもアクドイことを影でやっているように見せることができるかもしれない。レッドフォードも何度か顔役のような口ぶりを見せたが、やはりハンサムすぎて迫力に欠けていたと思う。

でも彼の演じ方、演出の仕方は、いかにも謎めいた人物像を上手く演じきり、しだいに過去のいきさつが解って、観客が同情したくなるような悲しく、せつない思いをも表現できて、さすがに魅力的だった。彼はみんなに好かれる稀有なスターだった。

ブルース・ダーンも実に上手かった。俗物の表現が素晴らしかった。彼はいつも恋人を取られる役柄が多いような気がする。「帰郷」でも、確かそうだった。さらにカレン・ブラックも凄かった。ちょっとオーバーすぎると思ったが。

そもそも原作が味わいのある、小説らしい小説だった。1回流し読みしただけであまり覚えていないが、ラストは銃撃で終わっていたような気もするので、もしかすると映画とは少し違っていたかも知れない。ギャツビーの父親がやってくるシーンは原作にあったかどうか記憶が定かでない。あったとしても、ほんの少しの記述で短かかったのでは?

父親のシーンは良かった。どんな子供だったか、将来の夢は何で、どんな努力をしようと考えていたか、などを話されると実に悲しい。映画用の脚本か原作にあったか解らないが、このシーンを付けたのは正解だった。

映画全体が、好景気の時代のアメリカの繁栄を再現しているので、美しく懐かしいような、華やかな雰囲気に満ちている。ロケで使ったのは実際の邸宅らしいが、豪華で空虚な感じが漂っている。ダンスする人達の影が幕に映るシーンなども絵になる。繁栄した時代こそ、悲しい物語が映えるのだ。

今の映画と比べると、この作品は大人しい。セックスシーンもない。家族で観賞することを前提に作られているためか?でも、不倫やらランチキ騒ぎやら出てくるので、子供向きとは言えないようだ。恋人といっしょにみるなら、これは素晴らしいのではないか?女性がどんな感想を持つのかは気になるが。「うーん。やっぱ私も打算的にいかなきゃ。」なんて、思わなきゃいいが・・・

カメラワークが気になった。自然でないことが時々あった。カメラの性能のせいか?テレビのようなアップの仕方の場面も何度かあった。特にカレン・ブラックがパーティーでしゃべる場面は、もう少し引いたほうが画になったと私は思う。でも、ほとんどのシーンは美しく、映画らしい魅力に満ちている。これはオススメの映画だ。

さらに感動モノの、涙を誘う物語にしようとするなら、どうすべきだったろうか?

おそらく原作同様に、主人公はヒロインの身代わりとして罪を被らなければならない。ヒロインが、それを知らないか、さっさか逃げていったら現実的で、結構まとまったのではないかと思う。主人公の正体が明らかになって、破滅するきっかけをヒロインが作ってしまう、そんなストーリーでも良かったような気がする。

主人公が殺されてしまうシーンは必要ない。「あれ?主人公はどうしたの?」と、隣人が訪れると、彼の父親が主人公が殺されるまでを説明してくれる、破滅としか言いようのない、みじめな死に方。懸命に生きた主人公の哀れな最後・・・そんな展開なら涙なしでは観れないだろう。

原作でも主人公はプールで撃たれて、回りながら沈んでいったと書かれていたように思うが、それを映像化する必要はなかった。映像化したことで、芸術的な工夫のしようがなくなる。なんで間接的に表現しようとしなかったのか・・・

 

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