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2009年4月12日

イントゥ・ザ・ワイルド(2007)

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- 評価の難しい症例 -

大学を卒業した主人公は就職も進学もせず、家族に行き先を告げずに一人旅に出る。お金も処分して、ヒッチハイクなどをしながらアメリカ各地を放浪する。

家族は心配し捜索願を出すが、主人公は偽名を使って行方を知られないようにする。時々はアルバイトして稼ぎ、アラスカを目差す。友人や、恋人らしき少女とも別れを告げて、アラスカの森林に入る。

彼はそこで、自給自足の猟師のような生活をする。彼の旅の目的、彼の望みは何か?

廃車になったバスで彼は生活するが、彼の回想をまじえて過去のストーリーも展開する。その中で、彼の考えが明らかになってくる・・・

・・・この作品は傑作だと思うが、主に原作者の分析力が高かったためではないか?原作者はヒマラヤ登山の事故をレポートして有名な人らしい。そのレポートのタイトルは「イントゥ・ジ・エア」なので、タイトルを似せてシリーズのように設定したらしい。独特な視点が、この作品のレベルを上げていると思う。厳しい環境に置かれた時に、人の本当の姿が見えてくると言うが、この話の主人公もそうだろう。

描く視点も良かった。単純な悲劇に陥りやすい題材を、映像の美しさや演出、適切なカメラワークで深いレベルで描くことに成功している。演技がくさいショーン・ペンに、こんな仕事ができるとは思っていなかった。原作者とカメラマンのおかげかも知れないが、演出と編集の力も素晴らしいと思う。

主役の青年は「スピード・レーサー」に出ていた彼だが、動作も表情も自然だった。彼本人の話であるかのように、実に上手く演じていた。

警官に殴られた時に主人公は「イエス・サー」と答えていたが、普通の返事なんだろうか?「ヤー」「OK」などが普通ではないか?覇気のあるある人間は、きっと別な返事をするだろう。大人しさを表現するためのセリフではないか。個性を表現するために、脚本にも相当な工夫がされていたのか。

ただし、この作品は家族で見るべきとは思えない。子供には理解し難いだろう。若い恋人にも向くかどうかも解らない。カップルで見るとしたら、熱が冷めたくらいの落ち着いた関係になってからが望ましいと思う。今まで何かに失敗し、深く傷ついた経験がある人でないと、全く意味のない作品だと思う。

自分の成長、親や子供との関係について悩んだ経験があれば、この作品には何かヒントめいたものを感じるのではないか?この主人公の物語は極端な設定なので、問題が浮き彫りになる。多少の共通点を感じる人も多いと思う。

問題は、この不幸な物語をどう描くかだが、本当に適切としか言いようのない構成で、奇をてらわずに描けていた。ともすれば難解な表現に陥ってしまいがちな題材だから、実績のある大監督が作らなかったことは良かったのかもしれない。例えばコッポラなどが監督したら、訳のわからない作品になったろう。

さて、この作品の主人公は何かの精神病であろうか?病的だったとは思うが、いったいどんな風に評価したらいいのだろうか。うつ病か、狂人か、独善的な人物か、純粋、繊細、ひよわな人物か、ただの不幸な回り道をしただけか?症例検討してみたい。

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1・うつ病と考えた場合

うつ病と単純に評価することもできる。狭い意味でのうつ病は何も行動できなくなるのがパターンだが、落ち込んでも反発して、かえって激しく仕事をし、何かにのめり込むことで一種の治療効果を生むタイプもいる。広い意味でのうつ状態と言おうか。この青年も、心の平安を願うあまりアラスカにこだわった、うつ状態の一種だった可能性はある。

うつ状態で、どのような変化が脳に起こっているのかは知らない。一般的には、何かの脳内の分泌物質、神経伝達物質の出方が変わる状態であろうと考えられているが、詳細については未だ説明されていない。精神的な反応のパターンが変化して、物事の認知やデータ処理に影響するはずなんだが・・・

うつ病には、ある程度の遺伝的な素因も関係すると思うし、親の言葉や行動も関係する。ひとつの理由によって発生するとは思えない。認知の仕方というのは、脳にインプットする際の管理ソフトのクセみたいなものだが、コンピューターの場合では同じ入力をしても誤作動を起こしたり、えらく手間取ったり、妙な印刷をしてくる場合が人間の心の病気に似ている。

脳の発達の具合や発達のレベルにも個人差があるはずで、誰でも全く同じはずはない。勉強しても身につく能力、処理のスピードに違いがあるだろう。もし脳が全てにおいて働きすぎると他人がバカに見えて傲慢な性格につながりえるし、良いことばかりではない。逆に、劣等感のせいで過剰に努力し、かえって凄い仕事を成し遂げる人もいるので、必ずしも能力が業績に比例するわけではない。

秀才の多くは、成績が悪いことによって損を被ることを恐れた強迫神経症とも考えられる。結果として自信を強く持てたので、自分の弱さを自覚しなくて済んでるだけで、実は不登校の子と紙一重だとも考えられる。能力的に優位に立っていないと不安でしょうがない神経症かもしれない。

潔癖症、強迫神経症という状態は、清潔でありたい、自分を病原体から守りたい、正しくありたいという良い精神反応から発生している面がある。でも、実社会では鈍感な人物が多いので、彼らに合わせた仕組みが出来上がっており、鋭敏な感覚の持ち主は、疎外感を味わうことも多くなる。もちろん、それだけでは説明できないが。

過剰に純粋さを求める人物は、社会の不条理や不潔な部分に憤るのが当然だ。「こんな腐りきった社会はイヤだ。俺は脱出したい。」と感じることも自然である。その人物はドロップアウトしやすいから、社会に適応できない弱い人間と評価されることになりやすいが、実は単に敏感なだけとも言える。本来は弱さとは関係ないのだが、阻害されて弱者になる。

逃げるわけではないのだが、アラスカに行くしかないと感じてしまったのかも知れない。そこで自分が強くなることができると確信してしまう、そんな精神反応、言い換えればデータ処理の誤作動が起こったのかもしれない。

2・成長過程の一現象と考えた場合

または、うつ病とは関係なく、成長過程の回り道の一種とも思える。

映画の中でも、主人公は自分を探す、または強くなるなどの意志を示していた。そろそろ森を出ようかとして、河を越えられないことに気がついたほどで、一生森の中で暮らそうとしていたわけじゃない。成長過程の中で、単に好みが多少変わっていただけとも言える。

誰だって美しい自然の中で、究極の自由を味わってみたいという欲求はある。私も奥さんから自由になりたいという欲求が多少ある。でも、いつも自分で食事を作るのは面倒だし、子供の世話もしながら仕事はできないので、仕方なく家内の暴言にも耐えている。アラスカどころか、近所の林にも行かないで我慢している。仕方ないのだ。

とは言っても、さすがに森での生活も一生はイヤだ。ほんの数日でいいし、蚊に喰われる時期はイヤ、雨に濡れるのも嫌い、お金は捨てない、絶対に。貧乏で苦労しているので、例え使わなくても捨てたりはしない。浅ましいし、ひよわな自然嗜好家なのである。でも、それが普通だと思うが・・・・

今の自分は精神的に成長したいとは考えない。成長を必要としない聖人ではないのだが、もはや余裕がなくて、この程度の小人物でもいいと思っている。成長過程は苦しいので、もうイヤなのだ。つまりおじさんになってしまって、変わることを拒否した作品中の老人のような存在なのだ。あの老人は、心から主人公を羨んでいたように思えた。

苦しんでいたとしても、色んな可能性があることは羨ましいことだ。成長できるということは、それだけで素晴らしい。成長の仕方にも個人差があるから、その間はアラスカのような場所でないと落ち着かないとしても、おかしくはない。

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3・放浪癖、冒険精神の面から

主人公が卒業式で壇上に飛び出すシーンは、キャラクターを上手く説明していた。ちょっと変わり者、多少は目立ちたがり屋とも言える、人の眼は気にするが束縛は嫌い、などの性格を持つ人は、結構パフォーマンスが好きなのだ。

だが、表情はクールに止める。壇上で目をむいて叫んだりはしない。本当の露出狂のような変人ではない。基本的には真面目で、真摯に物事を考える、自由を求める、そんなキャラクターだ。

そもそも放浪者達を、どのように評価すべきなのだろうか?

私が若い頃は、ヒッピーに憧れる人は多かった。夏場にリュックを担いだむさくるしい格好をした兄さんに会うこともよくあった。今なら派遣切りにあった浮浪者としか見られないだろうか。

彼らの欲したものは、究極の自由だろう。束縛や偽善は確かに多いし、あの時代は特にベトナム戦争での凶悪殺人を、「祖国のための英雄的行為」と崇める姿に嫌悪感を感じないほうがおかしかった。あの時代は反戦運動といっしょになって、自分達を解放しようという運動としてヒッピーの姿があった。

彼等の世代も年をとって、トレーラーで移動生活をしている人達の多くは老人である。私の感覚では、浮浪者すれすれの哀れな人達だが、彼らにとっては「束縛に耐えて頑張った結果、あんたはどんなものを手に入れたんだい?」または、「君は君、私は束縛に耐える生き方は拒否する。」という感覚があるのかもしれない。

救急外来に、本物の浮浪者に混じって夫婦の放浪者がやってくることがある。若い頃はさぞカッコよかったろうなと思える人が多かったが、年をとってくると病気がさすがに心配になる。ヒッピーも若いうちはカッコいいが、腹が出るとそうでもない。安定度に欠ける生き方であることは間違いない。自由のためには、若さと健康が大事な条件である。

健康、老後などに不安を感じる人は、自由を捨てて普通の生活に戻らざるをえない。勇気がない、年寄りのような考え方だとも言える。「もっと挑戦しろよ。」と主人公が老人に勧めるシーンがあったが、孤独な老人に挑戦できるだけの体力と時間があるのか?アメリカ軍の年金は豊かなのかな?

この映画の主人公が、もし早々と病気でもするか警察に殴られて大怪我でもしていたら、きっと身元がわれて家に連れ戻されていただろう。そうなると彼にとっては耐え切れない事態になる。「自由を目差して脱落した人間」としか見られなくなるからだ。意外にも彼のような人物は、人の眼を気にしないではおられない。彼が健康で良かったのか悪かったのか?

4・ワイルドさに関して

もし仮に主人公が異性への欲求に正直だったら、ストーリーはだいぶ変っていただろう。自分の夢よりも、目の前のカワイコちゃんのほうに流されてしまうのだ。滅多にないチャンスは、私のようなもてない男は絶対に逃したくない。私ならアラスカのことなど簡単に忘れてしまうであろう。そして恩着せがましく、「俺はお前のためにアラスカ行きを断念したんだ!」などと言うにきまっている。ああ、情けなあい・・・

欲も生き方の大事な要素なのかも知れない。主人公は清廉すぎた。ワイルドを目差したが、性的にワイルドじゃなかった。色気の分野にワイルドなタイプは失敗が少ない。もてるために努力をするし、カッコづけするので道を大きく踏み外さないのだ。主人公も色気を優先すればよかったのに・・・

もちろん、それでは美しい物語にはならない。「グローイング・アップ」のようなおバカなコメディになってしまう。映画としてはマイナスだが、「あの頃はバカなことをしたよなあ。」と昔話できる俗人であることも、生きていく上では悪いことではない。性犯罪を起こさない程度なら、欲も必要だ。

他の欲も大事だろう。受験勉強をガツガツできるのは、欲があるからだ。どうでもいいや、というチャランポランな人間は直ぐ脱落する。金銭欲や出世欲があれば勉強も頑張るが、私は再試験になって初めて勉強を始めるバカ学生だった。落第はしたくないという小さな欲しか持っていなかった。強烈な欲があればバカでも頑張ることができる点で、欲は大事だ。

本物の自由人は人の眼など気にしない。文句を言われてもどこ吹く風で、人の世話になることにも罪悪感を持たないで済むし、親が離婚しようがどうなろうが、自分が生活できれば気にしない。神経が何本か足りない本当のバカとも言えるが、そんな自由人は決してアラスカなんかには行かない。ネコみたいに、上手く人に寄生して生きていく。

我が家にも、この種の自由人がいるが・・・

まあ、とにかく俗人の私でも主人公には同情したい。彼と共通する面が誰にでもあるだろう。彼の心の表現、分析が確かなものだったからこそ、それが解った。作品として非常にまとまっていて共感できたことは、この主人公のような難しく変った人間を題材にしたのにも関わらず、高いレベルで表現できていたからなんだろう。

 

 

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