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2009年3月16日

カッコーの巣の上で(1975)

- 束縛が嫌いな男の行く末  -

刑務所の労役がイヤになったジャック・ニコルソンは、持ち前のあくどさで自分を精神病患者として偽り、病院に入院して逃げることを思いつく。やってきたのは、厳しい看護師長が君臨する病院。

くだらないカンファレンスを邪魔し、他の患者を煽動してテレビ観賞を要求するやら、脱走を企てるやら、実際に船で出かけてしまうやら、メチャクチャな行動。しかし看護師長はなぜか彼を治療することを求める。

彼女らが認めない限り、ニコルソンは病院から出られない!怖ろしい状況に気がついたニコルソンは、いよいよ脱走を試みるが、前祝いにパーティーを,企画する・・・

・・・NHK衛星映画劇場で久しぶりに観た。最初に観た頃は、主演のジャック・ニコルソンしか知らなかったが、改めて見てみると驚いた。その後に個性派として名をはせた名優達が大勢そろっていて、さながら演技派大集合の様相であった。

狂人たちの一人で、完全に顔からしておかしい(失礼)大柄の男はビンセント・スキャベリで、「ゴースト」で列車の中をさまよう幽霊役だった俳優だ。大げさな態度で眼をむいて騒ぐ男は、バック・トゥ・ザ・フューチャーの博士役で有名なクリストファー・ロイドである。ダニー・デ・ヴィートは、この映画がデビュー作らしい。まだ若々しく、アクの強さやおかしさは出していないが、改めて見ると非常に印象的だ。

この作品は、マイケル・ダグラスがプロデューサーをやったことでも有名だ。なんで自分で主演しなかったのか?当時は俳優としてはニコルソンのほうが圧倒的に有名だったので、ネームバリューを重視したのか?それに主役の個性を考えると、ニコルソンが無難と考えたのか?その辺の事情は何かで読んだ記憶があるが、忘れてしまった。

カッコーの巣の上とは、精神病院を意味するらしい。確かパンフレットに書かれていた記憶がある。

この作品の意義は、抑圧された社会の状況を精神病院に例え、精神的な開放を訴えたことではないかと思う。75年と言えば、もうあちらは完全に開放されたと私は感じいたが、伝統的な抑圧はあるはずなので、不条理に憤ることは、当時のアメリカでも多かったはずである。

ニコルソンは無茶な人物ではあっても、自分の自由と権利を重んじ、人の権利を踏みにじることは特に求めていない。おそらく人種差別もしない。よほど人間的な人物と写る。要するに束縛が嫌いなだけだ。そのような人物の存在の意味が、この作品の主題と言えるのではないか?子供時代の私はそう感じた。今でもそのように思う。

キング牧師の運動やベトナム戦争の影響が大きいと思うが、解放が叫ばれた時代がしばらく続いた後、90年代には完全に束縛のし直しのような時代もあった。私の世代は、この作品に影響されてしまったので束縛が嫌いである。病的なほどに。

とにかく、ニコルソンの迫力は大変なものだ。演技しているのか、地なのか解らないような気がするほど乗っている。イージー・ライダーでも存在感があったが、あれはまだ演技の臭いがあった。この作品では本当におかしな人格を持っているのかと疑いたくなる。

彼が演じたような破滅型キャラクターの人物は、意味は違っても異常と言えるんだろう。スポーツや賭け事などがいかに得意でも、物事の認識、理解の仕方がおかしい人物は多い。個性的というより、やはりおかしいと言ったほうがよい。

熱演によって、この作品は単なる社会派に止まらず、立派な娯楽作品にもなってしまった感がある。賞を取って、結構有名になった関係もあるだろう。家族で楽しむ種類の作品ではないと思うが、ある程度大人になった家族なら、皆で見るのもそんなに悪くはないように思う。恋人と観るのはそれほど勧められないが、ダメではないか?

この作品の看護師に代表されるスタッフの有り様は、いかにも非人間的である。もちろん立派に自分の職務に励んでいることは疑いないし、使命感に燃えているのも事実だが、必ずしも手放しでは褒められない。

看護師長がニコルソンを退院させないと言うのは、病院だから許されると考える人も多いかも知れないが、本来精神病でないと判断される人は、精神科の治療規則の適応ではないので、スタッフ会議で拘束されるべき対象ではない。

看護師の意見がまかり通ることはおかしい。日本とアメリカでは看護師の権利が違うので一概には言えないが、医師が「彼は精神科疾患ではない」と言えば、実はおかしいとしても即、退所すべきである。病院の管轄外の人間のはず。その判断が正しいかどうかは関係なく、権限の問題である。経験豊かな看護師が何を言っても、権限がないはず。

もし権限があるなら、はっきり権限を明示するべきである。アメリカではそうなのかも知れない。日本では、権限を明示しないままの施設が多い。病院を作るからには、管理するための権限、義務を明示しないといけないという発想がない。

したがって越権行為がまかり通ることが多い。例えば病棟の入退院管理は医者では無理なので、看護師やマネージャーが担当することになるが、看護師が忙しい時期には明らかにベッドが空いていても急患の受け入れを断られていた。

確かに入院があれば看護師は時間外労働を強いられるから、労働規則を慢性的に破るような行為は違法とも言える。慢性的に看護婦の過剰な労働を強いているのが日本の現況なので、その上さらなる献身を強いられると、看護師としては耐え難い状況になるるのは確かだ。

そうなんだが、共に働こうという意欲が感じられなかったことも事実である。いつの間にか、「当然医者の申し出は断っていいのよ。」という慣習になって、患者さんにはすまないけど・・という感覚は失われていた。中には無理しても医者の申し出に付き合おうという看護師もいるのだが、そうすると他の看護師から反感を買ってしまう。そんな風に私には感じられた。

労組が強かった職場では、きっとこのようなことは他でも当然起こっているはずである。単純に権限と義務を細かく規定していれば、このような問題は少なくなるはずなのに、とにかく我らの社会はルール作りの発想がおかしいのだ。

話は代わるが、精神科疾患の患者の管理には本当に苦労する。救急隊から連絡があった時点で気持ちがなえる。きっと今夜は眠れないだろうと覚悟を決めないといけない。

もちろん、こちらは精神科のかかりつけ病院に連絡を取ってくださいと言うが、連絡が取れなかったり病室がなかったり、内科疾患が疑われるから・・・などと色んな理由をつけられて、何とか病院に押し付けてしまおうという意図がありあり。頑として断るのが利口なんだが、いつも断れるわけではない。

そして患者さんが来院。案の定ワーワー騒いで、こちらの言うことには全く了解しない。内科の病気は主な治療の対象ではない場合でも、帰れないというもっともな理由があると入院するしかない。家族は怒る。「なんで苦しんでいる病人を入院させないんだ!」外来看護婦は怒る。「こんな患者を入院させたら、病棟は仕事できません。」

実際にそうだ。見回りしている間に患者が暴れたり、いなくなったりするに決まっている。そうなったら責任問題だ。管理なんかできるわけがないのに、責任だけはある。「条件として、家族の付き添いをお願いします。」とお願いしても、「いえ、それは無理です。親が病気で看る人がいないので。そんな無理を要求するんですか?」などと逆に怒ってくる。そして上手に帰られる。

行方不明になった例は数知れず。看護婦とケンカになってしまうが、他に受け入れが不可能なら受け入れざるを得ない。看護婦も怒って、患者さんが何か訴える度に医者を呼ぶ。「おなかが痛いと言ってます。痒いと言ってます。便秘だと言ってます。とにかく医者に来いと言ってます。」病棟に行くと、さっさと自分の仕事を済ませようとして、その場を医者に任せたがる。処置をして外来に戻ると、またすぐ電話して、とにかくベッドサイドに呼ぶ。

鎮静剤の指示を出していても看護師は「怖いので、先生がしてください。」と言うか、または無視することがある。要するに抵抗、復讐みたいなものだ。入院を許可した人間を絶対に眠らせないぞという考えを持つ職員もいるのだ。仕方ないので、大量の鎮静剤を投与して、呼吸が止まらないか確認するために結局はベッドのそばに張り付くことになる。「肺炎なのに、呼吸抑制はできないよなあー」と考えつつ・・・

実際に何かが起こったら、直ちに訴訟が待っている。

私が知っているだけで、暴れていた患者さんが急変してなくなった例が3件ある。幸い自分の患者ではなかったが、際どいところだった。無理にCTなどを検査をして救った例も5~6人いる。スタスタ歩いていた患者が足を骨折していたこともあった。痛みを全く訴えていなかった。

でも、こんな方法はおかしい。精神科の管理が必要な患者をどうするかのシステムができていないまま、ただ救急をやらせるのは無理なのだ。個々人の努力で解決させるやり方は、もう時代遅れだ。そうしないと、スタッフが耐え切れなくなる。

アメリカの精神病院には、作品を見る限りシステムがあるように見受けられる。犯罪者がどういう状態だったら退院できるか、どうやって決めるかなどの規定がしっかりしているようだ。日本には規定がない。ただしアメリカでも運営は会議の結論で変わってくるし、押しの強いボス的な人物が強く患者の入院継続を要求したら、簡単に退院させることはできなくなり、映画のようなことも実際に起きているのかもしれない。

日本の場合は、退院に関して話し合いなどするのだろうか?事務的に処理されるような気がする。精神病院といえども、おそらくは医療費削減目的でベッドの余裕はないと思えるので、多少の異常は無視してどんどん刑務所に返そうとするのではないか?哀れな患者は、もくろみが露呈する前にムショに戻らないといけなくなる確率が高い。

電気ショックの場面があったが、あれで人間をおかしくできるのか解らない。研修時代にショック療法に立ち合ったことはあるが、しばらく意識を失っていた患者さんは、やがてゆっくりと元の状態に戻ることが多いと聞いた。実習では自分から希望する患者さんもいると解説された。自分で患者さんにやったことはないので詳しくないのだが、電圧の調節などで後遺症を残すことも可能なのかも知れない。

ただし、どれだけ暴れて手が付けられない患者でも、意図して脳に障害を残す行爲は、明らかに違法である。拘束はできても、頭の内部に何かをすることは許されない。さすがに日本の現場でも告発を受けるのではないか?

日本では薬物による認知症は多いように見受ける。

近所の専門家達も、やたら薬が好きな人が多く、処方された内容にビックリする。精神科医の評判は、要するに患者が暴れないことが第一なので、薬による沈静を最優先する傾向がある。このため必要以上におとなしくなり、結果的に認知症の進行を早めたことが疑われる症例は多い。

学会誌を読んでも、やはり向精神薬を飲んだ群は、認知症が進む傾向はあるようだ。だから沈静してはいけないなどとは言えない。暴れて事件でも起こされたらかなわないので、やむをえない場合も多い。でも、やりすぎを疑う例も多い。

最小限の沈静で観察するには、相当な勇気と予測能力が必要であろう。

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