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2009年1月 2日

レイクサイド・マーダー・ケース(2004)

- 脇役が素晴らしい -

ある湖のほとりの別荘にて、塾の講師豊川悦司を講師に、有名私立中学の入試と面接の特訓が始まった。

主人公の役所公司も娘のために参加する。他の参加者は柄本明、鶴見辰吾と、それぞれの妻、子供達。

役所は現在妻と別居中で、愛人がいる。その愛人が、なんと合宿所に現れる。あわてる役所だったが、愛人とはホテルで待ち合わせる約束をして、とりあえずごまかす。

ところが結局愛人は現れず、帰ってきた役所が見たのは、別荘で死んだ愛人と、彼女を殺したという妻。そして他の夫婦。子供達を事件に巻き込んではならないという意見に従い、皆で死体を隠す。しかし、彼女の遺品を探ってみたところ、殺人の真相は別であることが明らかになってくる。

原作は東野圭吾のベストセラー小説。監督は青山真治という人 。

全体に静かで暗い雰囲気が漂う。ほとんどは夜の別荘の周辺のシーン。美しい湖畔の風景の中で、アクションシーン、格闘シーンなどもほとんどない、会話が中心の映画。時おり、ホラー映画ばりの不気味な死体の映像が挿入されている。映像は美しい。

でも役所はミスキャストだったのかも知れない。もっと激しい感情表現をする男優、もしくは心に深い傷を抱えた病的な感じのする男優のほうが良かったのかも知れない。彼は、のほほんとした男や気力をなくした人物を演じると上手いが、この作品のキャラクターには合っていなかったかも知れないと感じた。

共演の俳優達は適役だと思った。特に鶴見辰吾が素晴らしい。彼が若い頃はこんな俳優になるとは思っていなかったが、本当の脇役らしい脇役だった。できれば、ちょっと原作とは違うかも知れないが、もっと大きな役割を演じてくれると良かったかも。

例えば、「そんなヤツは親じゃない!」と柄本が言うシーンは、彼が泣きながらか~凄みながら言えば、心をうつ場面になったと思う。そう、この作品は、心をうつ場面をあえてさらっと静かに流してしまっている。全体の雰囲気が、静かで恐怖を秘めた感じに統一されているので、全体の流れから言えば浮いてしまうかも知れないが、やはり親子の問題は感動につながるので、盛り上げてもいいのでは?

黒田福美も素晴らしい。もともと女優らしい女優であるが、声やセリフの言い方が、いかにもおろかしい母親らしい感情を表わしていた。豊川の静かさも適切だった。

柄本明は、冷静で狂気を感じさせる大事な役どころだったが、ちょっと出過ぎだった。もっとコワモテ俳優のほうが良かったかも知れない。つまり「コイツが真犯人か?」と疑わせるブラフの役割と、親の気持ちを説明させる人物として、ヤクザ映画の常連のほうがシックリいくはずなのである。発音さえ良ければ、北野たけし御大でもいいかも知れない。

原作には問題ない。充分に練った作品に違いない。俳優達のほとんどにも問題ない。演出には、若干の違和感を感じる。

途中、死や殺意を連想させるためだと思うが、湖に沈む女のシーンなどが何度か繰り返されたが、効果的だったか解らない。観客は「この映画はミステリー小説の映画化作品で、あらすじは・・・」と、知っているはずなので、死~殺人のことは当然イメージしているわけだから、連想させる必要はない。

むしろミステリーの形式をとりながら、お互いの幸せを願う心をいかに描くかの感動路線を目差すのが原作の意図に近いのではないか?

子供が動揺していないのも不自然だった。実際に何かの事件を起こしたら、さすがに心の動揺を示す何かのサインが出るはずである。少なくとも、常に肝の据わった本当の異常者ばかりではない。きっと何かにオドオドしたりするはずである。それが全く描かれていなかったのは不自然である。本題に関係ないとしても、おかしい。

異常なくらい勉強に熱中するか、トランプでミスを連発するか、泣き出すか。いろいろ表現はあると思う。つまり、子供のキャラクター設定には問題があった。ただ良い子、ちょっとぐずな子、やや残酷な子では不足していた。

子供を犯罪者にしたい親はいないが、実際には家庭内暴力などに耐え切れなくて警察に頼らざるをえない場合は多い。それに更正を目差すなら、基本的には悪いことは悪いと、態度で示さないといけない。そのためには、安易に家庭内の問題に止めて隠そうとしないほうがいい。

少年犯罪者の多くは、何かの精神的な準備を経て、徐々に凶悪犯罪に向かっていくと思う。最初は昆虫を殺し、やがてネコ、そして人間へと進んだサカキバラなどが典型である。急に非行に走るかのように見える子供も、見ていて気がつかないだけで、実は徐々に病状が進行していると思う。

何か不幸なことが起こったら、最悪の事態を避けることを目差すべきであろう。

少年にとって最悪の事態は、繰り返し殺人を起こして更正もしようがないことだろうか。それに、周囲の人間までおかしくなることも最悪である。

はからずも殺人を起こした時には、「もう犯罪をやってしまった最悪の事態なんだから、いまさら更正を願って報告しても遅い、隠してみるべきだ。」と考えることもできる。しかし、その判断のために第二第三の犯罪を生んでしまったら、隠したことは犯罪の補助になる。「その時は、後で犯罪が続くとは思いませんでした。」と言ったところで、責任の持ちようもない。

責任を持てるかどうかを、どの程度重視するかが判断の分かれ道になる。責任より、感情を優先することも許される場合もある。批判は覚悟しないといけないが・・・。

一般的に、反社会的な行為はいっさい許さない態度を取り続けないと、兄弟など周囲に対する示しというか、ルール提示ができない。「ははーん、犯罪を起こしても、都合によって隠すんだな。」というふうに判断されたら、周囲の人間までおかしくなる。それは最悪である。

この映画の登場人物の判断が正しかったかどうかは、見ている個々人が判断すればいいが、やはり愚かさを持っていたことは否定できない。この後、どんな影響が出ると考えたのか・・・。それとも感情を優先するか?

もちろん、こういった問題には模範解答はあっても本当の正解はないのだが、最悪は避けたい。

 

 

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