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2008年12月24日

十二人の怒れる男(1957)

- 陪審員制度の難しさ -

ある町の法廷で、殺人事件の陪臣員になった人々が、審議室に帰ってきた・・・。

それぞれに仕事を抱えて、さっさと家に帰りたい陪審員達。一回目の表決では全員一意にならなかった。ひとりの男が、無罪と判定したのだ。陪審員達の表情は、「こいつのせいで家に帰れない。いったいどんな偏屈モノか?」顔を見ると、ヘンリー・フォンダであった。

フォンダの言うことには、一見すると容疑者が犯人であることは疑いないように見えるが、細かい点で疑問が残るという。細かい・・・こんなヤツが陪審員になると、小さいことをネチネチと取り上げて結局結論が出ないんだよね、と皆の表情が困惑しているのが見える。

ネチネチと意見を言うフォンダだったが、別の陪審員も「そう言えば・・・」と、疑問点に気づく。こんな偏屈モノが二人もいたんじゃ、こりゃあ今夜は帰れない。オーマイゴッド、なんて不幸なんだ、という表情がまた皆の顔に浮かぶ。

ネチネチ細かいことを言う二人に、怒りをあらわに反駁する委員も出て、議論が白熱する。しかし、議論の中で徐々に矛盾点が揃ってくる。めったにないはずの犯行に使われたナイフを、なぜかフォンダが持っている。

普通ナイフを持ち歩くなんて、ろくな人間ではない。フォンダはきっと本職は強盗に違いない。そういえば西部劇映画に出ていた顔だなこいつ。でも、その頃には皆が真剣に無罪の可能性を疑いだす。

議論が進むにつれて、形勢が変ってくる。さて、判決はいかに。

この映画のタイトルは怒れる男らしいが、原題はtwenty angry men~男達ではなかったか?manだったのかな?なぜか~男達と記憶していたが、間違っていたようだ。

この作品は名作の誉れ高い。ハイレベルに仕上げられたことに感動する。映画好きには特にこたえられないほどの傑作だと思う。

まず感心するのが、ほとんどのシーンが密室の中で撮影されているのに、閉塞感がないこと。ドラマに夢中になれるような緊迫感を維持できていることだ。時々はアクセントで雨の風景が一瞬写されるが、上手に使われているので、緊迫感の持続を損なわない。

よほど上手く演出しないと、画面だけに集中していることはできない。何か背景の変化か、新たな事件がないと退屈してしまうはずである。ドラマが素晴らしかったということだろう。

もともとは舞台かテレビ用に作られた脚本らしいが、適切な演出で立派に映画にしてしまった。シドニー・ルメット監督の力量もあったのだろう。

ヘンリー・フォンダを主役に選んだことは効果的だったと思う。彼のキャリアの中では、頭の切れるタフな西部の男の役が多かったと思うが、この映画でも簡単にだまされない男という点が、タフな男を連想させて役柄と合致していた。だまされやすい、うそに気づかない男は、タフではありえない。

その他の陪審員達の個性の描き方も良かった。

この種の映画では、個性を際立たせないといけないと皆知っているから、ややもするとオーバーすぎる演出が目立ち、自然に喜劇になってしまう傾向がある。三谷監督のパロディ作品の場合は、本当に喜劇なので構わないが、でもオーバーすぎるのは確かだ。

半分シリアスな作品の場合は、観客がどう反応して良いのか自分でも解らないような感覚になりかねない。シリアスに徹するのが効果的だった。

しかし、日本でも陪審員制が始まるとは思ってもみなかった。基本的な約束事が浸透しないと、制度が日本の社会になじまないと危惧する。情を優先する社会では、有罪の判断はしにくいはずである。

私が陪審員に選ばれたら、容疑者か容疑者の家族の誰かは私を知っているだろう。結構顔が広いのである。「判決は全員一意で有罪」などと出ようもんなら、嫌がらせは覚悟しないといけない。簡単である。「あの医者は、誤診した。患者を死なせた。」などと噂を流し続ければいいのだ。

その場合は私を守る法律はない。ただの噂でなく、意図的に悪意の流言を流したと証明することは事実上できない。診療所の窓を破られても、簡単に犯人を捕まえることはできないだろう。子供がいじめられても防ぎようはない。

「たとえ、どんなに疑わしくても、証拠が揃っていても無罪。」とするしかない。

実際、証拠が揃っていても、その証拠は警察が捏造したものでないという証明は難しい。指紋、髪の毛、遺留物などは警察官が持っていけば何とでもできる。犯行現場から金品を持ち去る警察官は実際に多いらしいから、逆にでっち上げの証拠品を持ってくることも可能である。

自白が一度くらいされても、それは警察が脅迫したものかも知れない。何度も繰り返し自白し、弁護士にも肉親にも犯行を自白し、数年たっても覆さないならば自白の信用度も高くなるが、それも警察の復讐を恐れてのことかも知れない。

どうやって有罪と判定するのだ?おそらく・・では済まないのだ。それを一般人の責任に転化したいのか?

「そんな哲学的なことを考えないで、法律に照らして判断してください」と言われても、実際のところおかしな法律が多いのである。法の問題を考える時には、法ができた経緯や時代背景を考えないといけない。多くは、どうやって国民を治めるかを念頭に作られている。どうやって国民の権利を守るかではない。

用語は難解、でも解釈は曖昧、文章は細かい点について規定してなく、官僚の作る省令によって実際は補填されることを前提にしているので、法律に照らしようがないという事態も多い。法律の作り方に関する法律がないのだ。こんなんで審議するなんて、あきれる。

しかし、そんな細かい私の意見がどうでもいいくらい、この映画は希望と正義への信頼に満ちている。ヒューマニズムってやつだ。ちょっとクサイけど、ホントいい映画だ。

 

 

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