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2008年11月16日

アパッチ砦(1951)

- 無駄な死? -

アパッチ砦にヘンリー・フォンダとシャーリー・テンプルの父娘がやってくる。フォンダは砦の司令官になるのだが、南北戦争で評価されなくて飛ばされたというのが実情らしい。

砦には実戦経験豊富なジョン・ウェインがいる。その他にもかって南軍だった兵士もおり、アパッチ族とも個人的に話せる間柄である。馴れ合いの雰囲気が漂う面は否定できない。フォンダは、規律を求めて古参の幹部と摩擦を起こす。

砦の若い士官に好意を持ったシャーリー・テンプルだったが、インディアンの来襲で危険になった中でデートしたために、フォンダは娘と仕官との交際を禁止する。しかし、砦の長老や妻連中の計らいで、こっそりダンスしたりはできる。

繰り返し攻撃してくるインディアンに、フォンダ達は相対することになる。彼らの言い分は、アメリカ政府から居留地に派遣されている商人によって酒などが部族内に出回り、文化や精神が衰退している。したがって、誇り高い彼らは居留地には戻れないという内容で、どう考えても尤もな話。

商人を調べると、銃や酒を売り込んで確かに悪影響を与えている。

ジョン・ウェイン達は同情するが、フォンダはアメリカ政府の意思である「インディアンは居留地に留まること!」を強硬に求める。交渉断裂。インディアンはフォンダ達を待ち伏せ、包囲する・・・・。

・・・・この映画は、娯楽作品と言えるだろうか?結構シリアスな内容だと思える。今の若い人や子供達は、この作品を観て楽しいと感じるはずはない。恋人や家族で観る映画ではないと思う。

でも、駄作ではない。シリアスな中にも、懐かしさ、ユーモアなどの香りが散りばめられた高級品だと言える。

‘詩情あふれる’とは、ジョン・フォード監督作品を評する言葉だが、この作品も登場人物の心情や誇りが伝わってくる作品であった。

この作品では、ヘンリー・フォンダの役どころが面白かった。頑ななまでに自分のやり方を貫く司令官であり、明らかに戦術的にマズイことをやってしまっているが、彼の描き方は「バカで身勝手な上司」という視点ではない。誇りを忘れない男として褒めている。

こんな描き方は、あまりに叙情的で、日本的ですらある。アメリカでは異質な心情のような気がするが、意外にもこの作品は大ヒットしたらしい。ヘンリー・フォンダに同情したのではないかも知れないが・・。

フォンダの役は、ある意味では悪役である。頑なすぎる上官、戦闘下手、人間性も?という役柄。でも、考えてみると、彼の役には結構こんな役柄が多かった。OK牧場や12人の怒れる男達では、たまたま良い方向に結果したからヒーローになれたが、「ワーロック」では嫌われていた。セリフの中で「次第に皆さんは私の強さが嫌いになる。」みたいなことを言っていたが、変った個性である。

とにかく、彼の役柄のような隊長がいると、敵は戦わざるを得ない。仮に勝ったとしても、「フォンダ司令官の仇をうとう!」と、死をプロパガンダに利用されて後輩達が攻めてくる。非常に始末に困る相手になる。そうやって、アメリカは進出してきたのだ。

したがって、戦い方を知っているベテラン隊長より、アメリカ軍全体にしてみれば効果的な司令官と言える。それを、この映画は表現している。

映画のポスターで見る主役扱いは、ジョン・ウェインだった。上官にも平気で反論する有能な中間管理職として描かれていて、戦いにおいてもヘンリー・フォンダよりずっと頼りになっていた。タフで頼りになる美味しい役柄だった。

しかし、彼の戦い方は優れすぎていて、インディアンの考え方にも通じすぎている。彼らに同情するので、インディアンを追い込むことにはならない。軍としては、フォンダが必要だった。

物語は、短編小説から題材を取ったらしい。このような手法は、山本周五郎作品を題材に話をふくらませて映画を作るのに似ているが、小説よりも説明時間が限られている映画の場合は、大河小説より短編を使ったほうが作りやすい。

無駄をはぶき、視覚効果やウケ狙いで演出を追加するのに短編のほうが便利という理由によるのだろう。

原作は間違った戦術により起こった悲劇を描いた小品と言える。しかし、その悲劇の中に紛れもないヒロイズム、誇りに満ちた魂があり、後悔ばかりの失敗ではないという意識が伝わってくる。

もちろん正しい戦術を用いて犠牲は最小限にすべきで、部下が惨めに死んでいいわけではないが、口汚くののしられるような失敗ではないとは思う。ちょうど太平洋戦争で亡くなった兵士達への我々の感情に近い。

間違った戦略を上層部がとっていることは解っているとしても、軍の規律に従って戦わざるをえない。そんな想いの兵士には同情を禁じえない。このような鬱屈した思いは、古来から敗戦の兵には繰り返されたことだろうが、肉親がそのような目に会うと、特にそうだ。

フォンダは勇敢だったし、合衆国軍の司令官の一人として誇りを持っていたが、賢い上官ではなかった。ただし、あのような司令官でないと、インディアンの制圧にはつながらなかっただろう。言い分を聞かない強硬すぎる人がいたほうが、軍全体の利益になる。

しかし、「インディアンみたいな野蛮人相手の約束は破っても構わない!」というくだりはひどい。

インディアン側の意見こそ正当なものであった。それを最近の契約の仕方から考察してみたい。

合衆国側の意見では、居留地に入ることを契約したから、そこを出るのは違法であるという。しかし、それによって自分達の文化や精神まで失う契約はしていない。合衆国には説明義務がある。

契約者を保護する規定がない契約は破棄できるようにするのが近年の考え方である。つまり、契約によって起こる不利益をちゃんと説明したことの記録、同意書がなければ、契約成立とは証明できない。

また、インディアンの土地において発生した事件は、インディアンのルールに基づいて裁かれるのが望ましい。合衆国の存在によって被る害について説明義務を果たした記録がなければ、合衆国の存在は無効である。

よって判決。アメリカは、その存在に根拠がないので、解散すべし。

ついでに最近の医療事故の場合の処理を検証する。

手術同意書というのがある。説明した後で、「・・・・のように、予測不能な副作用がありえますが、手術しないと生命の危険が高いので手術を勧めます。納得いただけたら、サインしてください。」「よく解りました。サインします。」と、書いてもらうのだが、術後に、「いーや、私は説明は聞かなかった。」と言って、大抵は無効になる。

起こりえる危険性を全て説明しきれていなければ、敗訴になる。患者さんが万にひとつの副作用で亡くなったら、「説明義務があったのに、していなかった」と断定される。

ところが、そんな副作用を家族が理解できるまで説明していると数年はかかるのが現実である。その間に患者の大半は死んでるだろう。つまり説明義務があるという法律は現実に即していない。「どの程度まで」という規定を明記しないと、法律と言えないのだ。

その規定は後日役人が通達してくるはずだが、ご存知のように現実離れしていて根拠もない、なぜか役人は責任が生じないが、業者には有利という内容が多い。

絶対に決め方がおかしい。通達する際の規則、法律を作る場合に規定する内容のルールなどがないから要領を得ないのだろう。

話が飛んだようだが・・・

シャーリー・テンプルは実にかわいらしいが、この時代は既に存在意義を失った子役だったはずである。観客に好印象を与えずにはおられないキャラクターの持ち主だが、しばらくすると映画界を引退してしまうので、最後に近い出演作らしい。歌手のYUIに似ている。

ラスト近くで、インディアン達がジョン・ウェインを前にして旗を地面に刺して去っていくシーンがあったが、砂埃が立ち込める中で旗が残り、その旗を記念に残すシーンが続くのはシャレた演出だった。

砂煙が彼らの迫力と勢いを、無理のない自然な形で表わしていた。そのような展開の良さが随所にあった。

監督の構想や、編集者のセンスが伺える。でも子供には向かない作品であろう。

 

 

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