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2008年5月 5日

アンタッチャブル(1987)

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- 古典的手法   -

アンタッチャブルというと、テレビシリーズが子供の頃にあって、楽しみだったのを思い出す。内容や俳優は忘れてしまったが、緊迫感だけは覚えている。

この映画は、ブライアン・デ・パルマ監督がサスペンス映画の手法を忠実に再現しながら作った印象が強い。あまりに忠実すぎるので、私は少々嫌な感じがしたくらいである。

階段を乳母車が落ちていく設定は有名な古典的映画でも使われていたが、もちろん昔の擦り切れたフィルムとは全然違う迫力と美しさを持つ良いシーンだったものの、やはり真似と言われれば、その通りだろう。でも、観客の誰もが「あ~!赤ちゃんはどうなる!?」と、気にせずにはおけない。

静かな駅の構内で、悪人達を待ち伏せる緊迫感が良かった。時々関係ない人が通り過ぎて行くが、「あれがマフィアか?」などと思ったとたんに一般の人だと解ると、観ている人の気が抜ける。すると、また別な人物が現われる・・という、しびれる演出だった。

テレビでは、カツカツというあの靴音の音響や迫力が出しにくい。非常にゆっくり時間をかけて、緊迫感の盛り上がりを作り出したのは映画だからこそできたことだろう。しかし、あんまり教科書的な演出ではなかったかい?

かえって懐かしい感じさえする手法だった。ただ、極めて見事に描かれていたのは間違いない。

カポネが野球の話をしながら、裏切り者とおぼしき男をバットで殴るシーンも良かった。怖いシーンで子供には見せないほうがいいが、カポネの怖さを表わすには最適な方法だった。テレビの時には、こんなシーンはあったか?

ショーン・コネリーも良かった。渋さと強さ、頑固さを表わすには、彼をおいて他の役者はいなかったと思う。ジョン・ウェインやなんかでは、悲惨な最期のシーンには無理がある。ロバート・デュバルなんかでは、体力的強さの表現に欠ける。

いっぽうで主役のケビン・コスナーだが、彼の代わりはいたような気がする。彼は良心的だが迫力に欠けるキャラクターであるので、本来のネス役のキャラクターには合っていないかも知れない。タフネスぶり、冷静さ、豪胆さなどを表わすには、別な役者のほうが良かったのかも知れない。

ハリソン・フォードではどうか?・・・鞭を持っていないとダメか?

実際のアンタッチャブルは、数十人の軍団だったらしい。主に会計や文書を調査する調査官が多かったと思うが、コワモテの実働部隊もいたろう。ショーン・コネリーやアンディ・ガルシアが、それを代表していた。

仲間が惨殺されていく場面、復讐に乗り出して犯人を捕らえ、さて法律で裁くべきかという時に、昔ならやっぱり私情はおいといて法廷の勝負に持ち込むべきですよという展開になっていたはずだが、この映画では思い切り私情をはさんでいた。いいのか?

陪審員まで買収されていたら、確実に敵を倒すためには法廷に持ち込むのはマズイが、ああもあからさまに映画で見せてよいものか?裁判所から何か言われなかったのだろうか?

日本でも陪審員制度が始まる予定だが、自分が陪審員になって暴力団の容疑者相手に「有罪!」なんて言ったら、どうなるのだろうか?狭い町なんで、きっと私が誰かは解る。もし復讐されて私が殺されれば、確かに犯人は捕まるだろうが、やられちまった私は生き返らないんだけど・・・。

陪審員の名前が書かれたメモを見つけ、ケビン・コスナーが一芝居をうつ展開も非常に見事だった。鮮やかな展開で、痛快さを味わえた。よくできていた。

もしかして敵の殺し屋を捕まえ、メモを見つけて、「これは、つまり陪審員を買収したってことだな。よーし、お前らの思惑を無駄にしてやる。」なんちゃって、口惜しがる殺し屋にアッカンベーをする展開でも良かったのでは?殺し屋が生きていては満足できない観客が多いのだろうか?

ちょっと考えたのだが、アンディ・ガルシアが乳母車を止めた途端に、慣性の法則に従って中の赤ちゃんが飛び出して、あわれ階下の石床に激突してしまったら・・・

・・映画の盛り上がりのためには、物理の法則なんかくそっくらえだ。

 

 

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