映画評

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Conflict of Interest

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2017年6月28日

シン・ゴジラ(2016)

Shin_godzilla

- toho -

東京湾に現れた怪物と、それに対して日本政府がとる対応を、シミューレーション劇のように描いた作品。DVDで鑑賞。

・・・・劇場では観なかった。さすがに怪獣映画を劇場で鑑賞する暇はない。子供が興味を持ったなら話は別だったろうが、SFやCGに慣れっこになっている我が子は、もはやゴジラ程度に浮かれたりはしないらしい。独りで行くのもバカらしいので、最初から興味の対象外。人気があったらしいと後で知って、それでもDVDで充分さと判断し、今回の鑑賞と相成った。

およそはDVDで充分と感じた。ただし、怪獣映画の場合、迫力は劇場のほうが断然あるだろう。残念ながらハリウッド映画ほど迫力のないシン・ゴジラでは、劇場鑑賞のほうが本来の鑑賞方法かも知れない。

役人や議員たちが右往左往し、要領を得ない対処をする様子が非常に的確に描かれており、それでもちゃんと娯楽性を維持している手際の良さには感服した。普通なら、人間たちがバカな対応をやらかして失敗ばかり繰り返したら、なんだか悲しくなるし、退屈してしまうだろう。いかにもありそうな失敗の連続が、実に上手く描かれていた。

主人公たちの懸命な姿勢が感じられたので、彼らの努力に共感できた。主人公を演じていたのは長谷川博己という俳優で、劇場主はこの作品で初めて知った。真面目そうな雰囲気で野心を秘めていそうで、ジャニーズタレントのように整いすぎた二枚目ではないので、こんな作品には向いていた。もしキムタクが演じていたら、嫌悪感を感じたかも知れない。

政治家や学者達が会議をやってるが、「こんな会議なんかやってていいのかねえ?」と口にする人間がいる。緊急事態と、慎重な判断が必要な時と、その区別を速やかにやって、法的な面でも問題なく対処するというのは、現実の世界では難しい。政府や役所の対応は、ほとんどの場合は遅れてしまうものだ。そこを的確に描いていた。

法で規定された事態なら、法で対処すべきである。何も規定していなかったら、事前の準備が足りなかったのさと諦め、臨機応変の対応を取るしかない。原発事故は、ゴジラ襲来とは違って、想定されたものなんだから、事前に何でも決めておかなければならなかった。あれは酷い失策、無策だった。東日本震災の時、物資を送りたいと県庁に相談したら、「何も決まってないので無理です。」と、丁寧なお返事をいただいた。アホか!日本に震災は必ず来るんだ!準備しておけ!

「首相・・・想定外で何もきまってませんでしたあ・・・」は、許されない。でもゴジラは、さすがに想定外でも仕方ない。

最初の段階でゴジラがまだ幼弱な時期に、川に沿って移動するシーンがあったが、あれは津波の映像を彷彿させた。数年前なら、震災被災者の感情を慮ってボツにされそうな映像だ。我々はやっと、あのトラウマ映像の呪縛から、解放されつつあるのかも知れない。でも、被災した人達にどう写ったのか?我々とは感覚が違うだろう。気になる。

ゴジラの退治の方法は、あれで良かったのだろうか?爆撃でも平気な怪獣が、大人しくビルの下敷きになったくらいで液体をゴクゴク飲むものだろうか?さすがに笑ってしまうが、怪獣映画だから仕方ないか・・・・そうそう、この作品は政府の無策を描いた作品じゃなく、怪獣映画だったんだ。

また、フランスを良く扱い、米国を繰り返し批判して良かったのか?娯楽映画だからと許されるなら良いが、もしかして今後、監督やスタッフのスキャンダルが突然公表されたりすると、それは某国諜報部の仕業ということになる・・・・・

 

 

2017年6月25日

ナチュラル・ボーン・キラーズ(1994)

Natural_born_killers

- Regency,Warner -

・・・・殺人者カップルの行動を描いた作品。原案はタランティーノ監督で、実際の監督はオリバー・ストーンがやったらしい。その経緯は分からない。社会派のイメージが強いストーン監督が、なぜ関わったのかもよく分からない。DVDで鑑賞。

この作品の存在は知っていたが、どんな作品なのかは知らなかった。また、ジュリエット・ルイスがヒロインだとも知らなかった。この作品には「ギルバート・グレイプ」と同じ頃に出演していたようだが、役柄がかなり違う。俳優の家庭に育って、演技に関して早熟で上手かったのかも知れないが、本物の殺人者の雰囲気が強く感じられたとは思えない。

本物の雰囲気が強くなると、見るに堪えない作品になるから、あえて演技が見えるようにしていたのだろうか?

テーマは、おそらくだが我々の中に潜む野獣性、凶暴性ではないかと思う。テレビキャスターが人質になりながら積極的に脱獄の手助けをする様子や、刑務所の所長自らが凶暴な行動で収監者を取り押さえる様子、さらには彼らを逮捕する刑事が実は殺人者であることは、裏に潜んだ衝動、凶暴性を表しているのではないか?

監督の解説を観てみたら、編集の途中でかなりのカットをやっているようだ。つまり、撮影しながら方針を変えて、表現のやり方を検討していたのだろう。映画では、そんなことが多いという。行き当たりばったりの演出の中で、表現法としてマズイ部分もあったのかも知れない。「俺たちに明日はない」とは少し違った路線だったようで、評価としてもそれなりになってしまったと思う。

両作品とも似たような主人公であったのだが、鑑賞後の印象は全く違う。作品として完成するうえでは抱えたトラウマを上手く表現し、観客の同情を買う必要はある。その演出に、少し足りないものがあったように思う。

作品のためには、殺人者の人格が理解できることが望ましい。普通には理解しがたい凶悪犯でも、その生い立ちや思考パターン、彼らなりの道理があるのかどうか?そこが作品のテーマにつながるし、観客の納得にも結びつくだろう。この作品、充分に納得させる力があったとは思えない。

この作品は恋人と観るべき代物ではない。こんな作品で喜ぶような人物とは、とっとと別れたほうが安全だ。いつ殺されても不思議じゃない。もちろん、子供には絶対に見せたくないタイプの映画。バイオレンス映画の中でも、最悪の方向性にあると思う。

ただし、人に潜んだ邪悪な業は否定できない。現実に裏社会は歴然と存在するし、身近にも怖ろしく凶暴な酔っぱらいがいる。そして、サイコパスのような冷たい凶暴性、過剰な競争意識に満ちた人物も多い。暴力に訴えなくても、経済的な暴力によって富を独占しようとする人は珍しくはない。そんな人物でも成功したら賞賛されているのが現実。ほんのちょっとした違いしかないのに、成功者と生来の殺し屋に分かれる、そんな印象もないわけではない。

劇場主は、生来人が良い。ナチュラル・ボーン・グッドマンと言える。運転の際には譲ってばかりいる。早くから脇に寄せて、高齢者や若い女性の車を優先させ、自分は後回しだ。ただし、その善意は相手からの感謝を期待しての面がある。譲ったら、にっこり会釈でもして欲しい。ときどきは酷い車もあり、譲ったこちらを怒鳴っていくような信じられないクソ車には、殺意さえ覚える。「ナニ考えてんだ、テメエ!」・・・そんな時、自分に潜んだ衝動性に気付く。

 

2017年6月22日

ローグ・ワン / スター・ウォーズ・ストーリー(2016)

Rogue_one

- Disney -

スターウォーズの最新版。といっても、この作品はジョージ・ルーカスが考えた話ではなく、スピンオフ作品で、上手く本流の話につなげてはあったものの、別人が考えた後付けのエピソードらしい。でも、オリジナルの流れとのつなげ方が実に上手かった。

劇場には行けなかったので、DVDで鑑賞。第一作で「非常に苦労して犠牲をはらって入手した・・・」と言っていたデス・スターの設計図を、どうやって盗み出したのかという話。この点に着目したアイディアが素晴らしい。

今作の中心人物たちは、ほとんどが死んでしまう話となる。話の流れからしてそのはずだ。よって本作はギャグ満載の楽しい作品ではない。笑えるシーンは少なく、笑いの担当はロボットの助手君が占めていた。

深遠な何かを持つ僧侶も登場していた。動きが美しく、カンフーアクション俳優と分かる。彼は皮肉めいたセリフも担当していて、ひねりの効いた笑いを生んでいた。フォースに通じる精神的な面は、彼が担当していたようだ。

今作はディズニーが制作の中心になっているという。したがって今後、シリーズとして話を作る場合は、デイジー・リドリー嬢が出演する本流のシリーズと、今作のようなスピンオフエピソードのシリーズが平行する形で作られることになるはず。いくつ作られるのか、死ぬまでに全て観られるのか、分からなくなってきた。

よほどな傑作ができない限り、かってほど興奮して新作を観ることはないだろう。だから全部観れなくても、今のところ劇場主は構わないと思っている。今は他にも凄いSF映画は多いし、高齢者がSFばかり観るのもバカにされそうで気が引ける。

本作のヒロイン、フェリシティ・ジョーンズ嬢は美しいが、野性的な表情をしている。口の近くはジェーン・フォンダのように出っ張っていて、意志が強い女性のイメージが漂う。今作のヒロインのキャラクターには合致していたと思う。もっとワルの雰囲気がする女優さんでも面白かったかも知れない。

悪役に、今ひとつ迫力が足りなかったと思う。デス・スター製作の責任者を、普通の人間がやる必要はない。その点は何を考えてああしたのか疑問に思った。ダース・ベイダーの弟子のような存在を考え、強さと狡さ、したたかさを持つキャラクターにしたほうが絶対に話を面白くしたと思う。強力な敵が最後に立ちはだかって、主人公らが絶望的な表情を浮かべることが、盛り上がりのためには望ましいはずだ。

 

2017年6月19日

ある戦争(2015)

A_war

- Nordisk Film -

アフガニスタンで警戒にあたっていたデンマーク軍部隊が、急に攻撃を受ける。なんとか生き延びた隊長だったが、その結果戦争犯罪で告発される・・・・

・・・・DVDで鑑賞。優れた小品と思った。夫と離れて母国に暮らす母子の様子がリアルで、妻や夫の心情が分かりやすく表現されていた点が特に優れている。子役は、もしかすると親役の本当の子かも知れない。表情がとても自然で、演技のにおいが全くしなかった。戦場の様子もリアルだった。単調な警戒警備、突然襲ってくる爆発の恐怖、仲間を失う悲しみ、敵意に満ちた住民の視線、善意が徒労に終わる空しさなど、その表現が的確だった。

全くと言って良いほど笑いの要素がない。それに負傷した兵士の様子が無残だったので、小さな子供に鑑賞させるのは気がひける。家族を描いた作品とは言え、この映画は家族で楽しむタイプの作品ではない。娯楽の性格が乏しいので、おそらくは小さな映画館で、芸術作品を好む落ち着いた年輩の方々といっしょに、静かに鑑賞するのが本来のスタイルではないか?

軍の裁判というものは、この作品に描かれたようなものなのだろうか?攻撃する際の根拠は確かに確認するのが望ましいと思うが、敵を確認しようとすると部隊を全滅させる危険性が高い場合も要求されるべきか、そこは難しい。攻撃を野放しにすると住民の虐殺を助長するだろうが、実際の戦場で敵を確認するのは簡単じゃないだろうから、攻撃の是非の判定も簡単ではない。

自衛隊の規則がどうなっているのか気になった。そもそも自衛隊は現実に存在し、役立っているのに法的には微妙な立場。そのため隊の規定は、理論的に矛盾したものも多いかも知れない。実際の戦場で使い物にならない規則があれば、隊員は生き残るために違法行為をやらざるを得ない。日本に限らず、現実から遊離した法律がEUの中にあって、その弊害で困っている人がいるのだろう。この作品も、実際の兵士が出演しているそうだから、現場の不満がアイディアの元になったのかも知れない。

海外に派遣されていた自衛隊員は、今までは幸い誰も殺されてはいないようだが、おそらく衝突に巻き込まれるのも時間の問題だろう。規定により何もやりようがなく、ただ殺されましたという実情が明らかになった時、世論はどう反応するだろうか?

(加計学園問題に関連して)

もし何者かが侵略をふっかけてきたら、総理は明日にでも自衛隊に出撃を命じないといけない。極論で言えば、その時に総理の友人達だけ避難させ、一般人を見殺しにしても仕方なしか?まさかの話だが、全員を助けられない場合、万が一の時の想像をめぐらせると、そこが気になる。加計問題は、そういった国防の大問題とは違う・・・・たぶんそうだ。でも疑念は沸く。それが自然な流れだ。総理の友人だけではなく、例えば自民党の関係者だけならどうか?

おそらく、権力者に有利な選択がなされたらしいことは皆が感じたはずなので、そんなものなのかという認識は残る。そして、それならば自衛隊員だって自分の都合を優先したくなってくるのではないか?国のトップの腐敗を許したら、モラルは崩壊する。下々はやりたい放題になっても不思議ではない。だからこそ、厳しすぎるくらいのモラルが、権力者には要求されるべきと思う。つまり、違った問題ではないはずだ。

総理の関与具合は、これを書いている時点では分かっていない。分からないで済ませようとしていると言うべきか?政府は徹底調査に消極的だと報道されている。なんて傲慢な態度だろうかとは思うが、確かにこれは政治の主題と離れた問題だ。大事な国会論議が、証拠を出すか出さないかの議論で費やされ、時間と場が無駄になるのもいけない。これは与党の首脳が言う通りだろう。小さな問題と、言えなくもない。

それでも常識として、個人的関係が認可に影響するのは許されない。友情と収賄は、区別するのが難しい。疑わしいことは避けるのが伝統的な考え方だ。官邸に不公正な利益誘導の疑いがあれば、とうぜん国会として証拠を探すべきだし、内閣の側は妙に隠し立てしない、そもそも疑われる事はしないこと、第三者に判断させることも望まれる。国会は責務を果たしていないし、潔くもない。

友人を優遇するのも心情的には理解できるが、官邸の立場を考えると甘え、認識不足と言われても仕方ない。もちろん収賄の具体的証拠はないだろう。総理自身は何も指示せず、副大臣などを介して意向を伝えたはずだ。殿様のような手法だろう。事件としての立件はできないだろうが、総理への敬意は、かなり損なわれた。人格面を評価するのは、もはや難しい。彼が何か崇高な事を述べても、信用はできない。

いっぽうで、官邸と役人の権力闘争の面からも考えないといけない。

現政権の功績は、景気回復のお膳立てをしたことと、官僚支配の弊害を打破し、政治家主導で行政を推進しようとしたことにあると思う。内閣人事局が役人の人事を握ったから、古い体質に風穴が空いた。「岩盤規制の打破」という文句は、なかなか格好良い。つい最近まで役人の都合が最優先され、国の発展が阻害された感があった。もし総理が失脚し、官僚の人事権が元に戻るようなことがあれば、万事の停滞は覚悟しないといけない。経済的なチャンスも狭まるだろうから、投資だって減るだろう。景気は悪化するはずだ。

総理のスキャンダルが表に出てくるのは、官僚から情報が漏れているせいだ。今回は特に、文科省が逆襲した形になる。親玉を失脚させようと、まるで時代劇で老中を追い落とそうとする連中のように暗躍していると思う。我々は、彼らの怪情報に踊らされている。この問題の本質はモラルの問題ではなく、単純な権力争いなのかも知れない。総理失格などと攻撃すると、それは役人達の思うつぼ。でも、役人の天下りや岩盤規制も望ましくない。どう考えるべきだろうか?よく分からない。

あらためて感じたが、政治家や役人にモラルを期待するのは難しい。だから優れた規則で縛るしかない。結構な歴史があるくせに大事な規則ができていないことが、我が国の大きな欠点。そして良い規則を作ることに国民の多くが無関心で、政治は役人に任せるものと思っている。そこが最大の欠陥だろう。

問題点が判明 → 対策作り、これはセットである。それができないことは無能の証で、対策決定こそが議員の仕事なのだという認識が希薄のようだ。斡旋、口利きが仕事と思っていて、そればかり期待するからだろう。モラルがないことが共通認識だから、議員と選挙民と役所が互いに忖度しあって、互いの利益を求めてしまう構造だ。

役人の人事権をどうすべきか全く分からないが、内閣に集中させると今回のような忖度事例が発生するから、権限を裁判所に移すか、あるいは国から独立した機関に移動、分散させることが望ましいのかも知れない。権限を1年ごとに移すのも面白いかも知れない。とにかく、権力が集中しないような上手いルールが必要だ・・・・・が、それが認識できていない。

他の業界でやられているように、利益相反の公表、あらゆる文書の完全な保存など、基本的な対策を地道に義務化することも望ましい。でも、これにも反対意見のほうが多いだろう。明文化は難しい。選挙民だって、国のことより自分の仕事のほうが大事だから、政府のモラルハザードは気にならない。都議選はともかく、おそらく国勢選挙結果は大きくは変わらない。よって問題点は改善されない。

何かもっと驚くべき事態の変化がないかぎり、証拠はありませんでした、騒いで面白がって、でも政局に影響なしで終わるだろう。そして我々の心がいっそう荒む。問題に対して対策をとることが期待できなくなり、モラルなど吹き飛び、希望が失われ、自分のことだけ考えたくなる。隊員達もそうだろう。その結果どうなるか、考えないのだろうか?

 

 

 

2017年6月16日

ジャック・サマースビー(1993)

Sommersby

- Warner Bros - 

・・・・戦争で死んだと思われていた夫が6年ぶりに帰還した。夫は人格が変わったように村のために貢献し、娘も生まれ、前途洋々と思われたが、逮捕されてしまう・・・・

DVDで鑑賞。実際の事件を元に作られた話で、リメイク版らしい。主演のリチャード・ギアは制作者も兼ねているから、リメイクの強い意欲を持って企画を進めたに違いない。

物語は面白いし、事実に基づくとしたら興味深い。だが今日的には、その意義がよく分からない話。たとえばベトナム戦争後の帰還兵が多かった時代など、意図した何かの狙いがあったのかどうか、画面を見ていても気づかない。良い題材だとは思うが、この企画をなぜ進めたのか、理解はできない。

この作品は、家族で鑑賞するタイプの映画ではないと思う。恋人と観るのが一番だろう。ちょっと変わった形の、物語性の強い恋物語といったところで、普通の恋愛映画を観るより面白いと思う。ただし、作品全体の出来映えは、大傑作と言えるレベルには達していないはずなので、退屈するカップルもいるだろう。

敵役の一人は、後の米国大統領役で有名になるビル・プルマンだった。彼は表情を作りすぎているように思え、あんまり好印象は感じなかったが、颯爽としていたら主人公がかすんでしまうので、敵役としては良い表情だったのかも知れない。

妻役のジョディ・フォスターが31才の頃の作品。色が他の俳優よりずっと白く、肌がやけに美しく感じた。特殊な化粧をしたのだろうか?おそらく役柄を考えると清楚なイメージを強調する必要があったはずなので、ライトを彼女だけに当てるような演出があったのかも知れない。この作品に限って言えば、彼女も少し演出過剰な印象を受けた。

主人公のリチャード・ギアも、自然な演技ができたとは感じない。好感は充分に感じたが、舞台俳優のような演技で、感情の変化が急にあるような、何かのバランスが狂っているような印象を受けた。

6年経て帰ってきた人間は、たぶん風体は非常に変わっているだろう。でも、友人達が本人か別人か判別できないということは、通常なら考えられない。20年くらいの時間が経てば、あるいはありうる話かも知れないが、6年くらいでは無理だ。友人達との細かい過去を全て記憶することは難しい。話の設定に無理があった。

村人も共犯になって、どうしても同一人物だと言い張らないといけないような事情があったほうが、話の展開としては無理がないと思う。経済的な事情なら、それはありうることと思う。その状況を、外部から探索する人物がいて、そいつを悪役としたほうが納得のいく流れになったはずだ。

日本の場合、小野田寛郎氏などの実例は有名だし、抑留から帰ってきた話は万の単位であるはずなので、題材は多いはず。でも、帰還兵が巻き起こす物語は、意外に映画化されたものがないような気がする。少なくとも有名な作品では記憶がない。成りすまし事件も、実はあったのではないだろうか?色々奇想天外なな作品が作られて当然と思う。日本でこそ、この種の物語のストーリーには意味があると思うのに、なぜか作られない。

 

 

 

2017年6月13日

脳外科医マーシュの告白(2016)

- 自伝の難しさ -

英国の有名な脳外科医であるマーシュ氏の自伝的エッセイ集。まだ映画化はされていないと思う。でも、きっとテレビドラマ化はされるだろう。

この作品の一番の魅力は、彼の失敗の部分。失敗して患者さんが亡くなる経緯を語った文章であろう。ひとりの人間として、感情的になる記述は特に共感する。よく書いたものだと思う。

日本では2016年に発売された本だが、本国ではかなり前に出版されているはず。NHK出版から出ていることは、氏がテレビのドキュメンタリーで有名だったからではなかろうか?

脳外科手術の失敗は、考えるだけでも怖ろしいほどの悪い結果を招く。人の人格を直接いじったり、意識のレベルを下げたりしたら、自分で自分を許せなくなるような気がする。彼らはどうやって自分の行為を正当化しているのだろうか?

「あそこが失敗だった!」と気づく場合はあるだろう。失敗なのか、やむをえない結果なのか、やった本人にも分からない場合もあると思う。失敗を認めるべきかどうか、特に訴訟沙汰になるかどうかという場合は、自分自身の頭の中でどう考え、患者にどう説明するのか、その本当のところを知りたいと思う。

劇場主の診療所でも2年に一例くらい処方間違いをする。確認は5人の人間で繰り返しやっているのだが、数百人に対する毎月の処方となると、信じられないようなミスが起こる。人命を左右するミスは幸い起きていないが、ヒヤリとする場合はあった。内視鏡検査をやっているから、1万例にひとりくらいは何かあるだろう。これも幸い、現時時点では無事というに過ぎない。

診断の間違いは、残念ながら多い。言い訳をするならばだが、確実な診断を目指すことで患者への不利益を及ぼす可能性が高ければ、診断はさけるべきだろう、そう考えている。卒中や癌の診断は、基本が大きな病院に任せないわけにはいかない。よく分からないまま、分からないことを説明するに留めるべき場合は多いと思う。

もしできることなら、自分も自信を持って自伝を書けるような人物になりたい、そう思ってきた。今のところ、それは難しそうだが、日記や随筆に近い文章、例えばこのブログなら一応は形になっている。ただし、書籍化は難しいだろう。

マーシュ氏は有名なドクターらしいが、画期的な新技術を編み出したドクターとは言えないかも知れない。教授的な権威を持っていたとも言えない。有名病院の高名な医者というだけ。でも、活動はかなり変わっていて、テレビにも出たりした関係で本が書けただけかも知れない。

つまり、もっと高名なドクターは大勢いるので、マーシュ氏を上回る体験談を持つドクターはきっといるし、もっと面白い本を書ける人もいるはずだ。実際には、書く気になれないまま終わった方が大半では?やはり、患者の機密に触れることは避けたいものだから。それに、本来の学術研究で忙しすぎてテレビなどに出演できないはずだ。

切れ味鋭い・・・と、劇場主が自分で思う診断、治療をできた患者さんも多い。そんな例なら、誇りを持って公表したいものだ。でも、それも想定外の個人情報漏れにつながるかも知れないので、やはり難しいように思う。マイナーな医者のままで終わるのも仕方がない。無理して自分の手柄話を広げても、虚構を書いてしまいそうな気がする。そして、本で誰かを傷つけることは絶対に避けるべきだ。

 

 

 

2017年6月10日

素敵なサプライズ(2016)

De_surprise

- ブリュッセルの奇妙な代理店 Content Media Coop. etc -

感情を失った自殺志願の富豪が、自分の死のセッティングを依頼した。しかし、気が変わる。彼を殺そうとする業者達は、彼を襲ってくるが・・・・

・・・・オランダ映画だそうだが、フランス映画のような洒落た雰囲気だった。監督のアイディア企画らしい。DVDで鑑賞。

非常に出来の良い、ロマンティック・コメディだった。あらすじは、最初の段階で読めてしまう。でも、ヒロインが非常に可愛らしい女優で、主役も人物像にピッタリはまっており、全体的にセンス良くまとめられ、欧州路線の善き伝統を感じる。ハリウッド流のバカ騒ぎ映画ではない。そこが良かった。

ヒロインは、オードリー・ヘップバーンを彷彿させる女優だった。ジョルジナ・フェルバーンという方だそうだが、他の映画で見かけた記憶はないので、テレビか舞台の女優かも知れない。コメディ以外には、あんまり向かないような印象を受けた。

もし、この役をグラマー女優が演じていたら、おそらく印象が全く違っていただろう。お色気にも色々質の違うタイプがあり、可愛らしさが必要な場合があり、この作品がちょうどそうだったようだ。

主人公はとぼけた風貌で、ダンスが妙に上手い点が笑えた。確かに働く必要のない男は、母親の相手のしながらダンスが妙にサマになってしまうものかも知れない。下着姿で踊るシーンは大人しい笑いを生む。

オランダの富豪といっても、劇場主はほとんど知識がない。かって世界の通商の覇者だった頃のオランダには、きっと財閥が形成されていただろうから、当時だとお城を建てたりしただろう。その一族が、現在どのような暮らしをしているのか、ほとんど知らない。

おそらく投資に失敗しなければ、いまだにスーパーリッチな一族がたくさんいるだろう。この作品に出てくるような富豪も、非現実的ではないと思う。ただ、一族の他の人間(親戚)がいないのは不自然な気もする。財産を狙う親族がからんで壮絶な殺し合いになれば、またそれも面白いと思うが・・・

 

 

2017年6月 7日

GODZILLA ゴジラ(2014)

Godzilla

- Legendary, Warner,Toho -

昨年の紅白では、「シン・ゴジラ」が大々的に扱われていた。紅白歌合戦の性格を変えた企画だった。あんな企画が通ったのは、映画がそれだけ評判だったせいだろうが、あの企画に意味が本当にあったのかは疑問。ただの悪のりに近い印象も受けた。

劇場主は、その前のハリウッド製のゴジラも観ていなかった。宣伝だけは繰り返し見せられていたのだが、劇場に行こうとは思わなかった。「シン・ゴジラ」を鑑賞する前に、その参考資料として、この作品を鑑賞することを決意した次第である。DVDで鑑賞。

主役がアーロン・テイラー=ジョンソンだったとは、観るまで知らなかった。宣伝では渡辺謙がさかんに登場していたので、渡辺が主役かと思っていた。今、渡辺氏は不倫騒動で隠れているらしいのだが、この作品の頃はちゃんと公衆の前に登場し、役者をやっていた。

ゴジラのスケールを感じさせるCGが素晴らしい。日本のゴジラ映画とは、技術面が違う。加えて、怪獣達にやられて破壊されていくビルや戦闘機、船などの表現方法も非常に素晴らしく、あれを観るために鑑賞しても良いくらい、凄い技術を感じた。

それ以外は、感心するほどではなかった。ドラマの部分は、過去の怪獣映画とレベル的に違う印象がない。役者の問題か、演出の問題なのかは分からなかったが、おそらくドラマ部門は検討が十分になされておらず、役者達の力量に任せても良いといった安易な判断があったのでは?そんな気がした。

劇場主の個人的な意見を申しあげれば、主役に比重をもっと集め、主役を取り巻く家族、友人、同僚達が普通の生活を送り、人間くさい問題を抱えていることは、時間を割いて表現しておくべきだったと思う。わざとらしい誕生パーティー、とってつけたような抱擁ではなく、自然さを重視した日常的仕草で良いと思う。

それによって、主人公が命を賭ける意味が理解しやすくなる。さらに言えば、主人公には是非とも犠牲になって欲しかった。血まみれの泥まみれ、無残な肉片になって、哀れみを感じさせて欲しかった。現実の話じゃないんだから、生き残る必要などない。

渡辺謙がキャスティングされた意味も、あまり感じなかった。同僚の女性学者も同じ。母親役ジュリエット・ビノシュのキャスティングも意味不明。軍人たちにも、もっと個性が感じられたほうが良かったのでは?

おそらく、ハワイや日本など、各所に戦いの場所を移動させたのは賢い選択ではなかった。ロスだけ、あるいはロスとハワイだけで充分だったと思う。主人公はそこらに勤務していて、同僚達といっしょに戦う→同僚が次々と犠牲になる→復讐に燃えて怪獣を追ってロスへ→ロスで決戦。それが自然ではないか?

モノレールに乗って怪獣に襲われるといった話は、見せ場の映像を作るためのわざとらしい設定だった。軍人が部隊に入ったり出たり、作戦に参加したり離れたりは、普通なら無理な話だろう。ぜひとも仲間と行動を共にして、個性豊かな仲間が次々と殺されたほうが良かったと思う。

 

 

2017年6月 4日

シング・ストリート 未来へのうた(2016)

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- Sing Street -

アイルランドの高校生が、美女の気を惹くためにバンドを結成。校長などに対する反感、自分の悩みを歌詞にして歌う・・・・

・・・・DVDで鑑賞。観た後に、すがすがしい気持ちになった。質の高い青春映画だと思う。監督のジョン・カーニー氏は自身もバンドをやっていたらしいので、おそらく自伝に近い半創作の物語ではないかと思う。

若々しい俳優達が出演していて、あまり過激な冒険はしないのだが、一種の学園ドラマのようなストーリーが展開し、懐かしいような気分を味わえた。当時の音楽も、雰囲気作りには効果的だった。いちおう、家族で楽しめる内容と思う。

気持ちが盛り上がってキスをした後に、マズイ発言をして「気分が台無しね。」と言われたりする、そんな不器用な様子が非常にリアルで、そこが魅力になっている。あれも、もしかすると実体験を使ったのかも知れない。

キス・・・・なんてことはない行為なんだが、劇場主はなかなか上手くできなかった。満足に女の子とキスできた記憶がない。ふざけたつもりで失敗して怒られたり、逃げられたり、ロクな思い出がない。おそらく、女性を傷つけないことにこだわり過ぎていた。そもそも、キスにこだわらないほうが良かったんだろうに・・・

作中の歌や演奏に関しては非常に上手いとは言い難く、本当のミュージカル映画とは比べるべくもないレベルだったのだが、妙に味のある曲が多かった。曲の質は、確かに重要な要素だったろう。観客が納得できる歌詞だと、「おお、こいつら結構よい曲を歌ってるな、意外だ。」という感情が生まれ、期待感が深まる。効果的だった。

出演していた俳優の多くは、役者のタマゴといったほうが正しいくらいの、素人に近い人達だったという。でも、それが良い味につながっていたように思った。本職の役者は、よほど計算して演じない限り、嘘くさい味につながる。魅力的な演技でも、所詮は芝居だと感じる瞬間がある。素人でも良い場合はある。

ただし、そんな設定が成功するのも、この作品に限った話で、同じ監督が似たような話ばかり、あるいは同じような作り方ばかりやったら、必ず失敗する。完成度の低い、荒削りの、若い頃の思い出に頼るような作品は、おそらく一人の監督では一回こっきりなのだろうと思う。

 

 

2017年6月 1日

ジャングル・ブック(1967)

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- Disney -

2016年版を観て、古いアニメ版の作品がどうだったのか気になり、DVDで鑑賞。ジャングル・ブックは、他にも作品があって合計すると4~5回映画化されているようだ。

67年版は、明らかにミュージカルが主体の子供映画と言える。2016年版は中途半端だったが、音楽の比重が違う。ただし曲調は古く、昭和を感じさせるタイプのスウィング風の音楽、単調に体を揺するタイプの踊りが中心。ペンギンが集団で乱舞するような昨今のミュージカルとは趣向が違う。「スリラー」のMTVの影響で、今のミュージカルは集団の踊りが必要になっている。もう「スリラー」の呪縛を外れてもいい頃だろうが。

登場する動物たちの個性も違っていた。重要なパートナーであるクマのバルーは、67年版では狡賢いところがなく、マヌケな個性。彼の個性を変えた理由は分からないのだが、もしかすると原作に近づいただけかも知れない。原作を読んでいないので、その個性を知らず、よく分からない。

サル達の王キング・ルーイの体の大きさは全く違っていた。67年版は自然な大きさのオランウータンだったが、2016年版は極めて巨大で、現実離れしていた。与える恐怖感は全く違ってくる。これはCG技術が進んだので、迫力を出せると考え、ああしたのかも知れない。

キング・ルーイの歌が気になっていた。2016年版ではクリストファー・ウォーケンがサルの声を真似た上手い歌を歌っていたが、67年版は本職の歌手かラジオの声優だろうか、ほぼ同じ調子で完全なジャズの曲を歌っていた。2016年版で新たに作ったわけじゃなかったのだ。調子のよい曲だから、そのまま再使用したのだろう。

敵役シア・カーンの怖さの表現も、かなり変わっていた。これも技術面の進化を考えて、よりリアルで迫力のある敵役を表現できるという自信が、2016年版の個性を生んだのだろう。67年版は、あまり力を見せていない。かぎ爪を見せて威嚇する程度だ。子供を対象にしたミュージカル映画で、リアルな迫力を出すのは愚かだ。67年当時の敵役は、あのような描き方しか考えられなかった。

67年版のモーグリ少年は、運動神経に問題があったようだ。あれではジャングルで生きていけるはずがない。しかも人間の少女が現れた途端、それまでの長年の友人をも簡単に捨てているではないか!劇場主としては、67年版でも黒豹バギーラとの別れだけは、もっと切ないものであって欲しかった。モーグリ少年のキャラクターも、かなり違っている。

どちらが良いのか、それは映画の個性にもよるだろうが、「人の成長」「自然への敬意」「野生動物への敬意」などのコモンセンスが数十年で変化し、米国人の感覚が欧州や東洋に近づいた点が影響したように思う。かっての米国人は、ジャングルの話なら野蛮人と野獣の荒唐無稽なギャグ、マンガ程度の話で良いさと、どこかなめていたのだろう。

制作者達の教養が変わり、古い67年版の感覚はズレていると感じるようになったのだろうか。その点は、特に象の行進で明らかだ。67年版の脳天気なギャグ調から、2016年版は神聖な行進に変わっている。絶滅危惧種なんぞ気にしなかった時代から、畏敬と哀悼の念を表現する時代に変わったのだろう。

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