映画評

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2018年2月21日

3月のライオン 後編(2017)

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- Toho -

 

高校生の棋士が主人公。ライバルや仲間たち、親しい家族や育ての親家族たちと濃厚に関わりながら、将棋の世界を戦い抜く物語。DVDで鑑賞。前編があったことは知らなかった。後編だけでも充分な長さであり、前編なしでも話は理解できた。

 

主演は神木隆之介。大人しくナイーブな個性の若者を演じさせたら、他に人材がいないのかと思えるくらいに独壇場の状態。そろそろ他の俳優も出て来てほしいと思ってしまう。ちょっと昔だと吉岡秀隆がいたが、彼は声が聞きとりにくくて閉口した。神木は小声でもよく聞き取れる。独壇場は続くのだろうか・・・

 

ヒロインの演技はまだまだの印象だったが、倉科カナの印象は強かった。実質的なヒロインだったかも知れない。

 

原作は漫画だそうだ。見たことはない。漫画なら、相当に細かい演出ができるかも知れない。微妙な感情の交錯を、実写よりも詳細に表現できそうな気もする。これも知らなかったのだが、テレビアニメ版が放送中だそうだ。大変な人気作品ということになる。劇場主は全く知らなかったのだが・・・・

 

この作品には確かな魅力がある。将棋の勝負、逆転劇、棋士たちの人生をかけた物語が、上手くストーリーに織り込まれているからだろう。将棋のルールを知らなくても、ある程度は理解できるように、上手く映像でもって表現してある。その表現力は素晴らしいものだった。演出をやりすぎると、荒唐無稽な勝負になってしまう。実際の戦いは静かに、パチリパチリという駒の音や、立会人の読み上げる声だけが響くものではないかと思う。音響が響き、情景が浮かんだり消えたりするのは妙だ。絶妙なレベルに表現を抑え、荒唐無稽路線を回避していたように思う。

 

棋士という職業は、劇場主には理解できない。少なくとも生産的な仕事ではないから、いかに勝ち続けても、タイトルを総なめしても、あくまで趣味の世界に限定された話。偉い~という評価より、よく集中できたねという別世界の評価が基本になる。実業家と同じようには評価できない。

 

もちろん簡単に勝つことはできないから、大変な才能、努力と研究を経て勝利をつかんでいることは分かる。ただ、たとえば有村架純演じた女性が自分の見逃した手を指摘されて、自分の生き方を反省するという流れは、すこし無理を感じる。そもそも人生うんねんとは別な世界で戦っているのが基本なので、将棋の勝負と人生の勝負を関連付けるのは妙だ。あのシーンは余計ではなかったろうか?

 

棋士も人間として成長し、周囲の人と関わり合い、憎しみあったり支えあうことも多いと思う。それが作品のテーマだと考える。その点についてはよく描かれていた。最近は中学生棋士の藤井6段が大活躍している。コメントもを聞くと、大人よりも大人らしい内容で、人格の面でも完成された印象を持つ。ピョンチャンオリンピックで活躍した選手たちも、競技の能力以外の計画性、持続する意志の強さなどが凄い。劇場主も彼らの強い意志を習いたいと思う。

 

 

 

 

2018年2月18日

舟を編む(2013)

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- Shochiku -

 

辞書の編集を担当する青年の物語。人とのコミュニケーションに難がある青年は、編集作業を延々こなすことになるが、作業は膨大。企画自体が危うくなってくる・・・・DVDで鑑賞。

最近、広辞苑が再版になっている。より巨大化し、片手で持つのは難しいほどの書物。ネット時代に、あえて巨大化で勝負する、その心意気に感心する。体力のある会社でないとできないことだ。

 

作品の宣伝は何度も観ていたが、あまりにもマイナーな企画なので、さして興味も持てないまま、鑑賞はお流れになっていた。今回は近所のビデオ屋さんの棚でたまたま見かけたので鑑賞。ビデオとしては高級な出来栄え、でも劇場での鑑賞にはどうだろうか?といった印象を受けた。素晴らしい題材だが、テンポを調整して心地よい雰囲気をつくるまでには至っていない印象。

 

作品として実によくまとまっていた。コミュニケーション障害のある主人公は、存在するだけでも興味を惹く。その彼が壮大な仕事をこなしていくと、達成できるか期待する気持ちが生まれる。その気持ちは作品全体への期待につながる。実によく出来た話だった。

 

宮崎あおいが出演しているから観たのかもしれない。彼女が出演した作品に大きな失敗作はない。きっと作品の質を上げる稀有な才能を持っているのだろう。もっと美人のスターはたくさんいるが、まなざしの使い方、幼児のような顔と体型などが相まって、旧来の名女優たちとは個性の違いがあり、そこに観客が何かを期待するという仕組みが出来上がっているように思う。

 

そう既に名女優だろう。大竹しのぶや、古くは高峰秀子や沢村貞子など、名女優はたくさんいる。名女優になるためには個性と演技力、自分の個性を生かす能力、集中力や企画力も必要なのかも知れないが、宮崎あおいの場合は相手役の支えになりそうな強さ、自分の世界を確実に持っていそうな雰囲気が実にうまく表現できている。子供のような顔が、たぶん役立っているのだろう。名子役のような存在なのだろうか?子役がそのまま順調に大人になったら、たぶん彼女のようになるのか?

 

主演の松田龍平も役柄に個性が一致していた。彼はバラエティ番組にもたまに出演しているが、この作品の役柄とあまり変わらない個性のように見受けられる。ボソッとした話し方や、表情のとぼしい所は、この役には最適な個性だった。他の俳優がうまい演技で演じても、ここまでの味はなかなか出ないだろうと思う。

 

発達障害やコミュニケーション能力の障害がある人間は、社会に出て活躍を続けるのは難しい。出世の道から外れやすいし、伴侶を得るのにも苦労する。お見合いのような機会がないと、話し下手な人間はなかなか結婚できないままになる。

 

昨今は事業として結婚の斡旋をする会社が多いようだ。劇場主もデートは面倒と感じるほうだったので、話するよりも先に段取りをつけてくれたらと思うところがあった。デートで自分を高く売るためには、ある程度の虚勢、嘘に近い見栄が必要だと思うが、演技めいたことをするのが嫌だった。そこが障害だったのだろう。

 

罪にならない程度の嘘なら、こだわる必要はない。ただ、自分のセンスで罪にならないと思っても、許しがたい傷をつけて気づかないままでいるだけでは?という不安は残る。嘘と言えないほどの誇張が、意外な形で人を傷つける可能性はあり、後でしまったと思うことも多い。おしとやかなふりをして結婚した娘さんは、後で地を出した時に夫にすまないと思うことはないのだろうか?家内を見る限り、そんな感情は一切ないようだが・・・

 

男女に限らず、友人や先輩、上司や広く社会全体との関係においても、できれば真摯な態度をとりたい。そう考えている人も多いと思う。ただ真摯な生き方は融通のなさと隣り合わせであり、コミュニケーションでも支障になる。さらに真摯という感覚も、時代によってかなり変化していくものだ。平成29年に明らかとなった東芝などの企業倫理は、やや古いタイプのものだったと思う。かっては許され、推奨さえされたものだったろうに、今は倫理にもとると断罪される。そこに我々が勘違いしまくってきただけなのでは?

 

 

2018年2月15日

LION/ライオン~25年目のただいま~(2016)

Lion

 

- TWC etc. ー

 

インドの田舎で迷子になった主人公。養子縁組制度でオーストラリアに渡った彼は、地図検索と自分のわずかな記憶を元に、故郷を探す旅に出る・・・実話が元になった話らしい。DVDで鑑賞。

 

少年役は非常に可愛らしかったが、大人になってからの役者は、少し頼りない印象を受けてしまった。実際に悩みの多い青年だったのかも知れないが、映画で描く場合は故郷を探すために苦労し、探しきれずに苦悩するだけの、単純な個性であったほうが良かったと思う。

 

本当に少年は自分の家を説明できなかったのだろうかと、少し疑問には思った。言葉が違うとしても、通訳が可能な人間によって村の名前、川や山などの名前を聞き出すことはできると思う。言語障害か知能障害があって能力的に上手く説明できない子供もいるだろうが、そんな子供は主人公とは少し状況が合わない。少年は十分に賢く、話も上手だった。少なくとも34歳くらいの日本人がインドで迷子になったとしても、およその住所を聞き出すことはできそうだ。

 

ただし、彼を預かった施設の方針が影響する場合は違う。ある程度の住所が推定できても、そこを探すよりも養子にして欧米に送ったほうが子供のためでもあるし施設の意義にも合致すると判断していたら、彼の故郷のことは無視してしまうかもしれない。そんな善意からの悪行?があったのではないかと、感じてしまった。

 

ニコール・キッドマン演じた里親には感嘆する。自分の意志で、自分の責務として子供を育てようという考え方は、誰でもできるものではないと思う。最後のほうで簡単に説明されていたが、LIONというのは主人公の名前ではなく、養子縁組制度の愛称のようなものらしい。欧米諸国は激しい植民地支配をした歴史への反省からか、古代から続く保護者制度の名残りからか、異民族の養子を受け入れる歴史があるようだ。

 

日本でも多くの留学生を受け入れているが、養子縁組は欧米ほど多くはないと思う。一般家庭では家が狭すぎる、豊かさにも限界がある、あるいは東南アジアを占領した歴史があって、しかも敗戦国であるなど、少し欧米と条件が違う。犯罪めいた養子縁組の例もあるから、いかがわしい意図を疑われるのが嫌という感覚もあるだろう。日本人がフィリピンの孤児、中国の仕事したそうな少女を養子にしたら、絶対によからぬ意図があると思われるだろう。

 

インドやアフリカ諸国の子供たちの場合、母国に残るか欧米に行けるかは、人生を大きく変える。そのままだったら死んでしまってもおかしくない子供は、今でもたくさんいるはずだ。少々うがった言い方だが、そうなっている理由のひとつは、我々の経済活動にある。後進国は経済的に支配され、生まれながらにして弱者になりやすい社会の体系がある。酷い状況の子供は救われるべきだ。

 

しかし、どの程度救うべきか、そこが分からない。人智、理想を超えた問題がある。救い過ぎると相手国が依存してくる弊害、人口の爆発、救われなかった子供との不平等、自国の子供からの反感、衝突、なんでも起こりうる。善意の養子縁組制度は古代からあった。しかし、それで人類が救われたりはしなかった。見もふたもない言い方になるが、それも確かな事実である。

 

 

 

2018年2月12日

わたしを離さないで(2005)

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Kazuo Ishiguro OBE ハヤカワepi文庫 -

 

カズオ・イシグロ氏の2005年の小説。映画やドラマにもなっているそうだが、まだ見ていない。イシグロ氏がノーベル賞を取ったのを契機に購読。

 

語り口が素晴らしかった。冒頭から献体の話が出てくるのだが、主人公の独白の中でさりげなく語られるので意味が曖昧。でも話が進むにつれて徐々に意味が分かってくる。彼らの運命や、彼らが感じた事々、彼らや彼らに関わる人達の感情が理解できて、共感もできるという仕組みが明確にできていた。

 

ジャズナンバーにタイトルとなった曲があるそうだ。聞いたこともありそうだが、そう認識はしていなかった。曲の雰囲気が小説に反映されるのは良い効果をもたらす。おそらく恋人と別れたくないといった内容の曲だろう。静かさや悲しみを連想させる。これもよく考えてあった。

 

大事な登場人物は男友達のトミー君と女友達になっていくのだが、学校に在籍している段階ではそれほど親密ではないという設定も素晴らしい。実際の学生生活、その後の親交に関する経験がないとなかなか書けない内容だと思う。いかにもありそうな関係。同じクラスにいる間は、他の友人たちの目を気にするせいか親密になれないことが多い。何かの偶然で、その後に再会した時に急に親密になる場合はある。学生時代の出会いや別れは、小説の題材として最適だ。たいていの人は未完成に終わった恋心を思い出して共感するものだと思う。

 

そしてストーリーに深みが生まれる効果もある。成長し、互いに影響しあって育った仲間たちが、運命によって悲しい終末に向かうことが分かると、同情せざるを得ない。よく考えてあった。

 

映画「アイランド」が似たような設定だった。清潔感あふれる巨大施設の中で暮らしているドナー達が、やがて臓器移植のために殺される運命にあるというサスペンス的な設定だった。最初、そのような設定であることが分からないが、提供という言葉が繰り返されて、やがて意味が判明する仕組み。事前の予備知識のあるなしに関わらず、時期は違っても最後には誰でも分かるような仕組み。映画の場合はより劇的に分かり、小説の場合は人によってバラバラなタイミングで分かる、そんなものだろうか。

 

「アイランド」との違いを感じるのは、主人公たちが何の反発もなく運命を受け入れている点。そこは不思議じゃないだろうか?正常な感覚を持つならば、逃げようと考えないほうがおかしい。その点の表現に問題ないのか、そこは気になる。劇場主は気になった。誰か逃れようとした人物が怖い罰を受け、恐怖で従わざるを得ないか、あるいは何かによって洗脳されているような設定がないと、おかしいと思う。

 

いっぽうで、逍遥と定めに従う異常な流れが、気味の悪い社会を表現したと言えるかも知れない。その意図があったのかなかったのか、読んだ限りでは分からなかった。強烈な管理体制によって運命に従っていることを表現できたら、もっと作品のレベルが上がったということはないのだろうか?そこが疑問。

 

 

2018年2月 9日

マンチェスター・バイ・ザ・シー(2016)

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- Universal

 

事故が原因で故郷を離れた主人公。彼の兄が亡くなったことで、甥っ子の面倒をみることになる。傷ついた彼の心は変わるだろうか?という話。DVDで鑑賞。

 

主演はケイシー・アフレックで、ほとんどの時間帯は不機嫌そうな無感動の表情を貫き、酒場で酔っぱらっては乱闘騒ぎを巻き起こす困った人間を演じていた。明確に心情が変わって明日を明るく生きれる・・・そんな安易な展開になっていなかった点は作品のレベルを上げていたと思うが、かなり分かりにくい展開で、先が見えない暗さのようなものも感じた。あまり興行的に受けにくい作り方だったのではないだろうか?子供が単純に感動するのは難しい印象。

 

構成も凝っていた。頻繁に回想シーンが現れ、シーンはかなり複雑な順番で入れ替わる。兄が生きている場面だから回想シーンだろうという風に後では分かるのだが、最初のうちは頻繁にシーンが変わりすぎて、少し無駄な印象も受けた。もう少し単純化できたのではないだろうか?あるいは、酔っぱらって寝っ転がる主人公が夢の中で回想するといった約束事を作ったほうが分かりやすい。悪夢にうなされる主人公の心象が、より明快になると思う。

 

殴り合いのシーンがやたらリアルだった。特に2回目の酒場でのやりとりは動きが良くて、本当に殴っていたように見えた。おそらくプロの格闘家が相手をしていたんだろうが、本来アクション映画でない作品でも、殴り合いはリアルであったほうが良いことが再認識できた。嘘が見えてはいけないのだろう。

 

ケイシー・アフレックが良い役者なのか、劇場主にはよく分からない。この作品では演じすぎていなかったろうか?難しい役柄だったと思うが、過去を引きずる人間は発作的に無茶な行動に走りやすいと思うのだが、異様に明るかったり無駄な会話をしてしまったり、ただ暗いだけではない場合が多いように思う。ただ暗いのはリアルではないかも。

 

自暴自棄な人物はいろいろ見てきた。劇場主が関係するのは病気が原因で仕事を続けられなくなった人間が多いが、精神科にも通っている患者さんの場合はもっと根が深くて、抑うつの度合いが激しい人が多い。過去になんらかのトラブルを起こして、警察沙汰を何度も経験した人もいたが、病気を治す、克服するという方向に向かいにくい深い傷を感じた。

 

どうすれば回復に向かわせることができるか、さっぱり分からない場合が多い。この作品の主人公の場合は、甥っ子と何か心に通じるものはあった様子で、結局別れて暮らすことになったとしても、全く無関係に生きることにはならないようだった。その点は救われる。実際に今まで経験してきた方たちは、家族からも絶縁状態になった方が多かったから。

 

マンチェスターという地名は各地にあるようで、映画の舞台になったのは題名のまま、マンチェスター・バイ・ザ・シーという地名の、港やゴルフ場などがある町らしい。不思議な地名だ。海岸そばの横浜町・・・そんな地名は日本では考えにくい。グーグルでみると、映画のシーンそのまま、静かそうな街並みが写っている。この町がなぜ映画の舞台になったのかは分からない。

 

元奥さん役を演じていたミシェル・ウイリアムスと、甥っ子役のルーカス・ヘッジスという若者に存在感を感じた。主人公がアカデミー賞を取ったが、この助演者のほうが素晴らしくなかったろうか?気持ちがよく分かる演技だったと思う。

 

特に画像のシーンでウイリアムス嬢が主人公に語るセリフは素晴らしかった。現実には謝ろうとしてさらに酷い言葉をかけてしまうことが多いものだろうが、映画的にはあれは作品のレベルを決定する素晴らしいセリフになっていたと思う。

 

 

 

2018年2月 6日

チャップリンのスケート(1916 )

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- Mutual Film

 

主人公はレストランの店員だが、イタズラに終始して仕事は滅茶苦茶。休憩時間には悠々と近所のスケート場に行き、そこでも騒動を巻き起こしている。レストランの客とスケート場の客の間で起こる騒ぎを描いた作品。

 

監督や脚本もチャップリンが担当。この頃には既に主体的な立場で契約できていたようだ。人気が急上昇し、またアイディアも明らかに良いと判断し、好条件の契約を結べたに違いない。

 

大男の紳士とのやり取りがおかしい。腕力では問題にならない差があるが、スケートの腕や奇妙な逃げ方によって捕まらずに逃げおうせるようになっていて、そこで笑わせる仕組み。これは相手役のエリック・キャンベルという俳優の魅力もあるのだろう。漫才師のペアと同じく、強面路線とどこか抜けていそうな雰囲気で、彼らはたくさんの映画で共演している。短期間に多くの作品を作っているから、仲間通しのほうがやりやすかったのだろう。

 

この作品の存在は知っていた。チャップリンを紹介したテレビ番組で観たことがある。スケートの腕前が素晴らしいので、若い頃に相当な練習をしていたのだろう。その腕前があるから、スケートを映画に取り入れたいと考えたのは当然だ。この作品の他にも、モダンタイムスでデパートの二階でだったと思うが、目隠しした状態で、えらく危険な場所でスケートをやるシーンもある。上手く映画に使っていると思う。

 

この作品はストーリー性に乏しいと思う。レストランとスケート場には、あまり関係はないように思う。不倫をしたい夫婦が登場する場としてレストランやパーティーしかなかったから、そんな設定にしたと思うが、無理が感じられる。作品に悲劇的な要素はなく、主人公は浮浪者ではないし、空腹に苦しむような様子もない。ただイタズラや適当な仕事をやっており、共感できるような人物ではない。後年の悲喜劇のスタイルじゃなく、ただのギャグマンとして演じていたようだ。5年後くらいに「キッド」を作っているはずだが、この時期はまだペーソスを狙う路線は時期尚早と考えていたのだろうか?

 

笑いと涙の路線は斬新なものだったろうから、人気が固定化し、観客も慣れたり飽きたり、新しい企画に誰もが納得するという確信がないと乗り出しにくい。おそらく銀行や会社のスタッフ達も、まったく新しい喜劇を作る前は、かなりの不安があったのではないだろうか?深刻なシーンがあっても、観客は次のシーンで笑ってくれる、悲喜劇でも受けるという確信は、おそらく徐々に作られたのだろう。

 

今で言えば、チャップリンの長尺映画は斬新なイノベーションによるものだった。映画の一大ジャンルを作り出した。この作品はイノベーションの前段階だったようだ。

 

 

 

 

2018年2月 3日

オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分 (2013)

Locke

 

- Shoebox Films etc. -  

 

仕事を終えた現場監督。彼は不倫相手の出産に立ち会わないといけない。そうしないと、彼を捨てた父親と同じような人間になるからだ。しかし、仕事と家族を失いかねない状況で、彼は苦悩することになる・・・

 

DVDで鑑賞。本格的な映画というより、舞台向きの戯曲といった印象。出てくるのは主人公だけで、あとは声の出演のみ。これは完全に舞台向きの設定だと分かる。おそらく元々は舞台を想定して作られたが、誰かが気に入って映画化したのではないだろうか?あるいは、監督自身がアイディアに乗ってしまって、後先考えずに制作を進めたのだろうか?

 

結果的に、この作品は興行的に良い成績はおさめられなかったらしい。広く大勢の観客に受ける内容ではなかったから、仕方ないかもしれない。でも、出来栄えは素晴らしかったと思う。まず、アイディアが素晴らしかった。絶体絶命に近い主人公の境遇、なぜ主人公がそんな行動をとらざるを得ないかという設定、主人公に絡んでくる会社の上司や部下、そして懸命の工夫によってトラブルを回避しようとする経緯、それらは教科書にしても良いくらいの完璧さだった。カメラの配置、直接主人公を見せるか、何かに反射して映すかなどの工夫も素晴らしかった。

 

一人芝居をやっていたのはトム・ハーディー。腕力自慢のタフガイを演じることが多い彼だが、役柄が違っても実にうまく演じていて感心する。厳しい状況でもときおり笑顔を見せる演技がリアルさにつながっていたように感じた。人はやばい状況で、逆に笑いが増えることがあるから。

 

優れた作品ではあった。しかし、これは映画である。映画向けに検討しなおすべきではなかったか?車内だけで物語を進めようというのは実験的で、芸術的な面では良いかも知れない。面白い趣向だと感じてくれる人は多いだろうが、映画の場合は家族を含めて大勢の人達が同時に観ても、ある程度の共感に誰もが浸れることを目指さないといけない。最初からビデオ屋に直行するような企画では、さすがにマイナー過ぎて感心できない。芸術性、特異性とともに、一般性も目指すべきと思う。

 

そのために、おそらくだが他の人物も登場させたほうが良かったのではないだろうか?回想シーンや、主人公の頭の中を映像化するようなシーンでも良い。どうしても一人芝居のスタイルにこだわるなら、画面を分割して他の人物を小枠で同時に映すとかしても良い。相手の顔だけは映して、相手がいかに怒っているか分かりやすく演じてもらうだけでも効果的だろう。声の出演だけでは、映像の迫力の面で苦しいことは間違いない。

 

 

 

2018年1月31日

ハクソー・リッジ(2016)

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Summit etc. -

 

敬虔なクリスチャンの主人公は衛生兵として沖縄戦に出撃する。彼は「汝、人を殺すなかれ」の教えを戦場で貫くことができるだろうか?DVDで鑑賞。

 

兵隊が銃を持つことを拒否できるかどうか?そこは教会の力が強い米国のこと、可能だろうとは思う。兵士といっても、情報を扱う担当官や物資の管理を専門にする人は、銃など拒否することも普通にできそうな気がする。しかし、戦場に赴く者が殺人を拒否できるのだろうか?できたからこそ映画になったわけだが、信じがたい奇跡。

 

この作品では現地人の姿は登場していなかった。でも実際には10万人近くに達する人達が亡くなっているのだから、戦闘の全体を見て考えるなら、この作品は非常に偏った描き方をしていると言える。主人公は誰も殺さなかったろうが、主人公の仲間は沖縄の一般人を殺しまくったはずだ。ただ、全体を描くことは映画の場合は難しい。仕方ないとも言えるだろう。

 

戦場のシーンは非常にリアルで、悲惨だった。ゾンビ映画を参考にしたような気がする。昔の映画ではせいぜい手足がちぎれていただけだったが、昨今のゾンビ映画はハラワタが飛び出ているのが標準装備のような感じ。参画した会社の中に、ゾンビ映画のプロが混じっていないだろうか?

 

たぶんリアルでないと思える点は、崖に作品で描かれていたようなネットをかけていたら、上から油をかけて火をつけるか、斧で切られてしまったはずだし、上から下に向けて銃撃されて多数の死傷者が出ないとおかしい。主人公が崖の際で頑張っておれたのは、映画的なシーンになるよう作られたものだろうと思う。

 

 

主人公を演じたのはアンドリュー・ガーフィールド。最近とてもよく見る役者だ。でも今回の彼には、あまり魅力を感じなかった。特に彼が強い信念を現したようには思わない。役柄は非常に良かったが、彼でないといけない理由は感じなかった。

 

実際の主人公は、戦後は後遺症に苦しんだらしい。英雄にはなったが、やはり代償は大きかったようだ。多くの兵士を救うことは、犠牲の精神がないとやれないことであり、実際にも彼は人生のかなりの部分を他の兵士に捧げたことになる。勇敢で、しかも敬虔な信者でもあり、誇り高き人物だったと思う。

 

以下に述べる考え方は間違っているかもしれない。劇場主は戦後の教育を受けて育った人間だから、米国の宣伝に乗った内容が思考の基本にある。いっぽうで猛烈な愛国精神を持っているから、日本側は何でも正しかったとする方向に考えが偏りがちだ。当時の体験者の感情がこもりすぎて、真実をゆがめて語られた内容を、またさらに劇場主の感情で歪めて認識してもいるだろう。

 

敵となった日本側の兵士についても、評価すべき点はあると思う。圧倒的な兵力を持って襲ってきているのは間違いなく米軍側であり、ある意味で解放者となったとしても侵略者であることも確かである。兵士一人一人は知らなかったかもしれないが、沖縄を基地化して太平洋の覇権を確立するために襲ってきているのであり、絶望的な戦いを続けた日本兵こそ主人公に負けず劣らず勇敢だった。死ぬのは確実と思いながら、戦っていたはずだ。

 

さらに言えば、現地の人たちにしてみれば日米双方の兵士が悪魔のような存在だったと思う。勝手に戦われて、酷い目に遭わされたのだから、弁解の余地はない。民間人を巻き込んだ責任は双方にあると考える。

 

そもそも沖縄を攻撃する必要はあったのだろうか?制空権も制海権も確保していたはずだから、とりあえず放っておいても、大きな問題はなかったのでは?もちろん予想外の逆襲にあって、日本兵達が襲ってこないとも限らないが、限界はある。船も戦闘機も乏しい日本を相手にする場合、島に閉じこめさえすれば無力化できる。日本兵や住民が少ない島を占領し、空港を作って本土を攻撃すると一番良いだろう。沖縄は後でゆっくり料理することもできた。誤った戦略によって、住民と米軍の兵士を無駄に殺しただけではなかろうか?基地化を急ぎ過ぎて、無用な死者を出した、主人公らの英雄的行為は、根本的には非人道的だったというのが、かなり客観的な評価だと思う。

 

 

2018年1月28日

サイドウェイ(2004)

Sideways

 

- Fox Serchlight20'th fox -

 

独身最後の旅行に出かけた二人組の男。主人公はワインとゴルフ三昧を予定していたが、相棒は違う考えを持っていた・・・1月23日、衛星放送で鑑賞。

 

サイドウェイというのは「寄り道」といった意味だろうか?そうだとすると、少しタイトルで損しているように思う。ワインを連想するタイトルが良いと思うのだが、どうだろうか?「ワイン&ゴルフ」じゃだめだろうか?

 

主演のポール・ジアマッティと共演者たちの演技、演出のセンスや全体の雰囲気、そしてワインに関する映像などが素晴らしく、出来の良い映画だった。万事にセンスが良かった。原作があるそうで、そのセンスも良かったのかも知れない。ワインに関しては、一朝一夕で知識を得るのは難しいので、原作に書かれていたのではないだろうか?

 

もし、この作品がワインのウンチクなしで進められていたら、たぶん味わいが損なわれていたに違いないと確信する。薄っぺらな喜劇に終わっていただろう。観客の注意がストーリーと関係のないワインの話に向かうのは良くないような気がするのだが、ワインには豊かな生活、幸せなどに通じるものがあり、他の話題とは影響がずいぶん違う。

 

ワインを語る主人公は一定の知識を有する人間で、ある程度は人生の楽しみ方を知っている人物と考えることができるから、共感しやすいという効果を生んでいるようだ。他の趣味より作品に良い反応をもたらしている。また、ワイン通は通常ならハイソな人物をイメージさせる。作家のタマゴで、しかも母親から金をくすねるような人物が、妙にワインだけ詳しいというのは妙だ。主人公のピント外れの認識をもイメージさせる。

 

米国には独特の哀愁路線というべき、悲哀に満ちた男性映画がある。欧州の悲喜劇ほどの重々しさはなくて、基本が笑いを狙っていることが明白で、ドジか気弱な個性の持ち主がやることなすこと全て裏目に出るパターンと決まっている。主人公は小柄で太っちょ、小説家志望というのも典型的なパターン。そして、今回主役のポール・ジアマッティが、まさにはまり役の個性の持ち主だった。漫才師で言うと、ツッコミの側の個性で、「爆笑問題」の田中君などに通じると思う。怒った口調が笑いを誘うようだ。

 

カリフォルニアワインは日本でも飲むことができる。でも劇場主が知っているのは大手のカルロ・ロッシくらいだ。カルロ・ロッシは白も赤も味が確保されている。非常に売れているから工場で大量生産されているのだろうが、日本の高いワインを飲むのがバカらしくなるほどの出来栄えだ。

たまに新しいカリフォルニアワインを試してみるが、苦みがきつすぎたりして理解できないものもある。はずれがないのはドイツのリースニングワインのほうで、苦みを楽しむタイプのワインは慣れが必要なのかも知れない。

 

ニガウリなど、独特の苦みも慣れれば美味しさになる。ダラの芽やシソの葉、ウドなどの野草にも苦みがあるものが多い。でも懐かしさや、クールダウンさせる独特のサポニン的作用があるらしいので、味わいとなる。ワインの苦みも、慣れれば味わいとなるのかもしれない。

 

ワイナリーを旅してまわるなど、時間的に考えられない。資金的にも、そんな余裕はない。人吉市の焼酎蔵まわりならできるかもしれないが、それすらやっていない。飲んだ後、どうやって移動するか考えてしまう。それに毎日の仕事をこなすのに精いっぱいだ。なんて窮屈な人生なんだろうか。

 

 

 

 

2018年1月25日

20センチュリー・ウーマン(2016)

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Mordern People etc.

 

同居人らと暮らす母子が主人公。子育てで苦労する母親の姿と、少年が女性たちに影響を受けながら育っていく物語。DVDで鑑賞。

 

監督のマイク・ミルズの脚本が原作だそうで、監督自身の実体験が作品の元になっているという。

ユーモアにあふれるセリフが素晴らしかった。情感豊かな人でないと書けそうにない脚本。作中で監督はフェミニストだと言っているようだから、女性の気持ちもわかるナイーブな感性を持っているのだろう。ほのぼのとするような独特の優しさを感じる。

 

優しい視点を感じる理由は、母親達に敬意をはらっているからだろう。女性たちの生き方を肯定的にとらえ、自分が彼女を心配させ、傷つけたことを悔やんでいる様子が感じられる。

 

ナイーブな青年も、世間の荒波を経ないといけない。当時だとパンクロック系の音楽、マリファナ、ベトナム戦争への反対運動や、その後遺症などが大きなうねりだった。その勢いにまみれて、自分を見失った人も多かったと思う。ナイーブな青年には特に難しい局面もあったはず。母親が女性たちに息子のアドバイス役を頼んだことは、結果的に成功していたのだろうと思いたい。

 

作中の母親は高齢出産で少年を生んだという話だったが、実際にもそうなのかもしれない。大戦中に空軍パイロットを目指していたくらいだから、60年代には相当な年齢に達していたはずだ。20世紀を生きた女性たちを代表する存在としては、世紀末に亡くなること、社会進出を遂げること、若者文化にも一定の理解を示すこと、タバコを手放さないことなどが必須の要件だった。

 

タバコに関しては、本当にひどい吸い方を女性たち皆がやっている。でも、思い起こせば田舎の宴会はあんな感じだった。もうもうと煙が立ち込めた中を、我々子供達も平気で行き通いし、十分に空気を共有していた。今だったらあり得ない光景になるだろう。肺ガンにならないほうが不思議なくらいだ。

 

この母親は、劇場主の母とも年齢が近い。劇場主の母はタバコを吸っていなかったので、劇中の母よりは長生きできた。しかし母は専業主婦で、育児と菜園での農業に精を出した人生だったから、狭い世界でに留まっていた点はかなり違う。朝早くから夜遅くまで、明らかに働き過ぎていた。文化の違いもあったろう。日本の田舎の主婦たちの多くは勤勉で、狭い世界に留まっていた。でも、だから不幸だったとは言えないように思う。

 

同居人が多い家庭は、日本では多くない。かっては下宿人を多く抱える家もあったが、この作品の頃にはアパートが主流になったはずだ。下宿の時代も、ほとんどは自分たちの部屋に各々入って、家主の家の家族と長く交流したりはしなかったはず。滅多なことではいっしょに飲みに出かけたりはしなかったろう。  

 

高校の頃は劇場主も下宿していたが、この作品のような深い交流はなかった。勉強に追われていたし、下宿先となじめた感じはなかった。御飯どきに世間話はしていたが、まさか飲み会を開いたりはしなかった。そもそも日本では、家主と間借り人の関係は深くならないのが原則のような、ちょっと違った伝統、社会通念があったのではないだろうか?

 

 

 

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